現代文対策問題 64

本文

その日、私はバスに財布を置き忘れた。気づいたのは終点のバス停に着いてからだった。営業所に電話をしたが、まだ届いていないという。途方に暮れてバス停のベンチに座り込んでいると、日が暮れ始めた。知らない町の冷たい空気が、心細さに拍車をかける。

その時、一台の軽トラックが私の前に止まった。運転席から作業着を着た初老の男性が顔を出す。
「お嬢ちゃん、どうしたんだい。こんなところで」
私は事情を話した。すると、男は「そうかい、そりゃ大変だ」とカラカラと笑い、こう言った。
「うち、すぐそこだから、来なさい。電話くらい貸してやるよ」

正直、ためらった。見ず知らずの人の車に乗るなんて。でも、彼の日に焼けた顔の深い皺と屈託のない笑顔を見ていると、不思議と警戒心が解けていった。

彼の家は小さな農家だった。奥さんが出してくれた温かいお茶を飲みながら、私は家族に電話をかけた。迎えに来てくれるという。私が何度頭を下げても、夫婦は「いいってことよ」と笑うだけだった。

帰り際、奥さんがビニール袋に入ったトマトを持たせてくれた。
不揃いだけど、うちで採れたやつだから。味はいいよ
家族の車が迎えに来るまでの短い時間。私は、この見知らぬ夫婦の何気ない親切に救われていた。世の中、捨てたもんじゃないな。そんなありふれた言葉が、すとんと胸に落ちた。


【設問1】傍線部「不揃いだけど、うちで採れたやつだから。味はいいよ」という奥さんの言葉や行動に表れている気持ちとして、最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 自分が作った野菜の品質に絶対の自信を持っており、その味を自慢したいという気持ち。
  2. 困っている相手に対して見返りを求めない、素朴で温かい思いやりの気持ち。
  3. 形が悪い売り物にならないトマトを処分するために、ちょうどいい相手だと思った計算高い気持ち。
  4. 都会から来た若い娘に対して、田舎の人情の厚さを見せつけたいという自己満足の気持ち。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「自慢したい」という自己中心的な気持ちではなく、相手を気遣う気持ちが中心です。
  • 2. 奥さんの行動は、財布をなくして心細い思いをしている「私」を元気づけようとする純粋な親切心から来ています。「不揃いだけど」という言葉には、立派なものではありませんが、という謙遜の気持ちが込められており、見返りを求めない人柄がうかがえます。採れたてのトマトは、彼女の素朴で飾らない温かい人情の象徴です。
  • 3. 「計算高い」という打算的な人物像は、これまでの夫婦の親切な行動とは合いません。
  • 4. 「見せつけたい」という押し付けがましい態度ではなく、ごく自然な善意から出た行動です。

【設問2】この出来事を通して「私」の心境はどのように変化したか。最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 見知らぬ土地でのトラブルに巻き込まれ、人間不信に陥った。
  2. 自分の不注意を深く反省し、これからはもっと慎重に行動しようと決意した。
  3. 途方に暮れていた状況で、予期せぬ人の温かさに触れ、世の中への信頼感を取り戻した。
  4. 田舎暮らしの素朴な魅力に気づき、都会での生活を捨てて移住したいと考えるようになった。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 「人間不信」とは正反対の経験をしています。
  • 2. 「反省」や「決意」もしたかもしれませんが、この物語の中心は、他者との関わりによる心の変化です。
  • 3. 物語の冒頭で、財布をなくした「私」は「途方に暮れ」「心細さに拍車をかけ」られ、不安な状態にありました。しかし、見ず知らずの夫婦の屈託のない親切に触れることで、その心は和らいでいきます。最後の「世の中、捨てたもんじゃないな。そんなありふれた言葉が、すとんと胸に落ちた」という一文は、この出来事を通じて、彼女が人への信頼や希望を取り戻したことを象徴的に表しています。
  • 4. 「移住したい」とまで考えるのは飛躍した解釈です。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:64