現代文対策問題 9
本文
私がこの古い喫茶店に通うようになって、もう五年になる。初めてこの店を訪れたのは、仕事で大きな失敗をして、居場所がないように感じていた雨の日だった。重い足取りでさまよっていた私を、窓から漏れる温かい光と、珈琲の香りが引き寄せてくれたのだ。
マスターは、私が席に着くと、黙って一杯の珈琲を差し出してくれた。そして、「雨の日は、良い豆が入るんですよ」とだけ、低い声で言った。その言葉に、特別な慰めがあったわけではない。しかし、私の事情に深入りせず、ただ静かにそこにいることを許してくれるその距離感が、当時の私には何よりもありがたかった。
以来、私は何かあるたびにこの店を訪れた。嬉しいことがあった日も、どうしようもなく落ち込んだ日も。マスターは、私の表情から何かを察しても、決して詳しいことを尋ねはしなかった。ただ、その日の私に合うと思う珈琲を、黙って淹れてくれるだけだ。カウンターに座り、豆を挽く音や、湯気の立つカップを眺めていると、絡まっていた思考が少しずつ解けていくような気がした。
今日も、私はカウンターの隅に座っている。特に何があったわけではない、平凡な一日だった。マスターが差し出したカップから、柔らかい湯気が立ちのぼる。「今日は、穏やかな味ですね」。私がそう言うと、マスターは少しだけ口の端を上げて、「ええ、あなたのような」と静かに答えた。その一言で、私の平凡な一日が、何だかとても特別なものに思えてくるのだった。
【設問1】傍線部①「私の事情に深入りせず、ただ静かにそこにいることを許してくれる」とあるが、このマスターの態度が「私」にとって「ありがたかった」のはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 仕事で失敗したばかりで他人への不信感が強く、誰とも話したくないと思っていたから。
- 自分の状況を説明する気力もなく、同情や過剰な励ましを重荷に感じるほど心が弱っていたから。
- マスターが自分の過去の失敗をすべて知っていると思い、余計なことを話させない配慮だと感じたから。
- この喫茶店が隠れ家的な存在であり、自分のプライベートな情報を店主に知られたくないと思っていたから。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「不信感」とまでは書かれていません。「居場所がないように感じていた」という内面的な弱さが中心です。
- 2. 「仕事で大きな失敗」をして「重い足取りでさまよっていた」という状況から、精神的に疲弊していることがわかります。そんな時に、事情を詮索されたり、無理に励まされたりすることはかえって負担になります。そっとしておいてくれるマスターの距離感が、弱った心には最も心地よかったと解釈するのが妥当です。
- 3. マスターが「私」の過去を知っているという記述はなく、これは飛躍した解釈です。
- 4. 「プライベートな情報を知られたくない」という警戒心よりは、「ありがたかった」という感謝の気持ちが述べられているため、心の弱さに寄り添う選択肢がより適切です。
【設問2】傍線部②マスターが「少しだけ口の端を上げて、『ええ、あなたのような』と静かに答えた」とあるが、この言葉に込められた意味合いとして最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 珈琲の味と客である「私」を結びつけることで、長年の常連客への親しみを込めた、粋な賛辞を贈っている。
- 「私」が店の珈琲の味も分からない素人だと判断し、皮肉を込めて適当な返事をしている。
- 「私」が平凡で穏やかな人間だと評価し、もっと刺激的な生き方をすべきだという忠告を暗に示している。
- 店の珈琲の評価をされたことに気分を良くし、お世辞を返すことで「私」にまた来店してほしいと伝えている。
【正解と解説】
正解 → 1
- 1. この日の「私」は「平凡な一日」を過ごし、心境も「穏やか」でした。マスターはそれを表情などから察し、その穏やかな心境に合わせた「穏やかな味」の珈琲を淹れたのでしょう。その上で、珈琲の感想を述べた「私」自身を、その穏やかな珈琲になぞらえるのは、長年の付き合いで相手を理解しているからこそできる、洗練されたコミュニケーションです。「賛辞」と捉えるのが最も文脈に合います。
- 2. 「皮肉」と解釈するには、本文全体の温かい雰囲気にそぐいません。マスターは一貫して「私」に寄り添う存在として描かれています。
- 3. 「忠告」という説教じみたニュアンスは、マスターの「深入りしない」というスタンスと矛盾します。
- 4. 単なる「お世辞」や「営業トーク」と解釈するのは、五年間の関係性の中で築かれた、言葉少なな信頼関係を浅薄に捉えすぎています。
【設問3】本文の内容として、マスターという人物像の説明で最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- おしゃべりで陽気な性格で、多くの常連客と談笑することで、店の明るい雰囲気を作り出している。
- 口数は少ないが、客を注意深く観察し、言葉によらない形で相手を思いやる心遣いができる。
- 経営の才覚があり、客の心理を巧みに読んで、店の売上を伸ばすための戦略を常に考えている。
- 珈琲の知識は豊富だが、人付き合いが苦手で、客とは必要最低限の会話しかしないように努めている。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「おしゃべりで陽気」という描写とは正反対です。「黙って」「低い声で」といった描写から、物静かな人物であることがわかります。
- 2. 「私の表情から何かを察しても、決して詳しいことを尋ねはしなかった」「その日の私に合うと思う珈琲を、黙って淹れてくれる」といった記述から、寡黙ながらも優れた観察眼と深い思いやりを持った人物であることがわかります。これが最も的確な説明です。
- 3. 「売上」や「戦略」といったビジネスライクな側面は本文から一切読み取れません。
- 4. 「人付き合いが苦手」なのではなく、「深入りしない」という彼なりの美学や優しさとして描かれています。結果として口数が少ないだけであり、動機が異なります。
【設問4】この物語全体からうかがえる「私」のこの喫茶店に対する思いとして、**適当でないもの**を、次の中から一つ選べ。
- 自分のことを詮索されずに済み、ありのままの自分でいられる精神的な避難場所。
- マスターとの言葉を超えた交流を通じて、日々の心の状態をリセットできる特別な空間。
- 珈琲の味や店の雰囲気を楽しむだけでなく、人生の様々な局面を共に過ごしてきた記録の場所。
- 仕事の失敗や人間関係の悩みを忘れさせてくれる、現実逃避のための唯一の手段。
【正解と解説】
正解 → 4
- 1. 「事情に深入りせず」「静かにそこにいることを許してくれる」という記述から、精神的な避難場所(サンクチュアリ)であることがわかります。
- 2. 「絡まっていた思考が少しずつ解けていく」という記述から、心をリセットする場所であることがわかります。
- 3. 「嬉しいことがあった日も、どうしようもなく落ち込んだ日も」通っており、五年間の人生の節目に寄り添ってきた場所であることがわかります。
- 4. この店は、単に嫌なことを「忘れさせてくれる」だけの場所ではありません。むしろ、自分自身と向き合い、絡まった思考を解きほぐすための場所です。「現実逃避」という言葉は、この店の積極的な役割を矮小化しており、「唯一の手段」という限定も強すぎるため、不適当です。
語句説明:
詮索(せんさく):細かいところまで、根掘り葉掘り調べること。
寡黙(かもく):口数が少ないこと。
矮小化(わいしょうか):実際よりも小さく、劣ったものに見せること。