現代文対策問題 5
本文
姉の部屋のドアを、私は二度、軽くノックした。返事はない。もう一度、今度は少しだけ強く叩くと、中から「……なに」と、くぐもった声が聞こえた。私が声の主に似つかわしくないほど丁寧な口調で「夕食、できたけど」と告げると、しばしの沈黙の後、「いらない」と短い返事が返ってきた。
扉一枚を隔てた向こう側で、姉が何を思っているのか、私には分からない。分かるのは、姉が大学を辞めてこの家に戻ってきてから、部屋に籠もる日が続いているという事実だけだ。リビングの食卓には、母が心を込めて作ったであろう姉の好物が並んでいる。湯気を立てるシチューの皿が、やけに寂しげに見えた。
私はドアノブに手をかけ、一瞬、それを回すことをためらった。姉の心を無理にこじ開けるような気がしたからだ。だが、このままではいけないという焦燥感が、私の背中を押した。ドアを開けると、カーテンを閉め切った薄暗い部屋の隅で、姉が膝を抱えて座っていた。窓の外では、楽しげな子供の声が遠くに聞こえる。
「おなかすかなくても、少し食べなよ。母さん、心配してる」。私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。姉は顔を上げず、ただ小さく首を横に振る。そのか細い拒絶の仕草に、私はかけるべき言葉を失ってしまった。姉の周りだけ、時間が止まっているかのようだった。私にできるのは、ただそこに立ち尽くすことだけだった。
【設問1】傍線部「湯気を立てるシチューの皿が、やけに寂しげに見えた」とあるが、このように見えた理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- シチューの出来栄えが思ったよりも悪く、食卓全体の彩りが寂しいものになってしまったから。
- 食べるはずの姉が部屋に籠もり、母の心尽くしが受け取られない状況を象徴しているように感じられたから。
- 自分自身の空腹感が強く、豪華な食事を前にして姉を待たなければならない状況に、もどかしさを感じたから。
- 食卓に一人で座る母の姿が目に浮かび、家族がばらばらになってしまったことへの悲しみがこみ上げてきたから。
【設問2】本文における「私」の姉に対する態度の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 姉の引きこもる態度に強い怒りを覚え、何とかして部屋から連れ出そうと強引な手段に訴えようとしている。
- 姉の将来を心から心配し、厳しい言葉で叱咤激励することで、姉を立ち直らせようと決意している。
- 姉の状況を理解できずにいるが、何とか力になりたいという思いと、どう接すればよいか分からない戸惑いの間で揺れている。
- 姉のことには無関心だったが、母親に頼まれたため、仕方なく姉の様子を見に行き、義務的に声をかけている。
【設問3】本文の内容に照らして、**間違っているもの**を、次の中から一つ選べ。
- 姉は大学を中退し、実家で生活している。
- 母親は、部屋に籠もる姉のことを気遣い、好物を用意した。
- 「私」は、最終的に姉を説得し、一緒に食卓で夕食を食べることができた。
- 「私」は、姉の部屋のドアを開けることに、一瞬のためらいを感じた。
【設問4】本文の「沈黙」や「静寂」といった表現の効果に関する説明として、**適当でないもの**を、次の中から一つ選べ。
- ノックの後の「返事はない」という静寂が、姉の心を閉ざした状態を暗示している。
- 「いらない」という返事の後の「しばしの沈黙」が、「私」が次の行動をためらう緊張感を生み出している。
- 薄暗い部屋の中の静けさと、窓の外から聞こえる「楽しげな子供の声」との対比が、姉の孤立感を際立たせている。
- 家族の会話が全く描かれない静かな食卓の様子が、この家族が互いに無関心で、冷え切った関係であることを断定している。
【正解と解説】
設問1:正解 → 2
- 1. シチューの出来栄えに関する記述はありません。主観的な見え方の問題です。
- 2. 母の「心を込めて作った」姉の好物が、姉の「いらない」という拒絶によって宙に浮いている状況です。そのやるせない状況が、温かいはずのシチューを「寂しげに」見せていると解釈するのが最も自然です。
- 3. 「私」自身の空腹感についての記述はなく、論点がずれています。
- 4. 母が一人で座っているという描写はありません。あくまで、姉に届かない食事そのものに焦点が当たっています。
設問2:正解 → 3
- 1. 「強引な手段」とは真逆で、「姉の心を無理にこじ開けるような気がした」とためらっています。「怒り」よりも心配の気持ちが強いです。
- 2. 「厳しい言葉で叱咤激励」はしておらず、むしろ「驚くほど穏やか」な声で話しかけ、「かけるべき言葉を失って」います。
- 3. 「姉が何を思っているのか、私には分からない」という部分と、「このままではいけないという焦燥感」から行動を起こすも、結局「立ち尽くすことだけ」しかできない、という葛藤と戸惑いを的確に捉えています。
- 4. 「母さん、心配してる」という言葉や、ドアを開けるのをためらう様子から、「無関心」「仕方なく」という心情ではないことが分かります。
設問3:正解 → 3
- 1. 「姉が大学を辞めてこの家に戻ってきてから」という記述と一致します。
- 2. 「母が心を込めて作ったであろう姉の好物」という記述と一致します。
- 3. 姉は「小さく首を横に振る」だけであり、「私」は「かけるべき言葉を失ってしまった」とあるため、説得は成功していません。これが明確な誤りです。
- 4. 「一瞬、それを回すことをためらった。姉の心を無理にこじ開けるような気がしたからだ」という記述と一致します。
設問4:正解 → 4
- 1. 呼びかけに応じない静寂は、コミュニケーションの拒絶、すなわち心の扉が閉ざされていることの象徴です。
- 2. この間の沈黙は、「私」が次の一手をどう打つべきか逡巡している様子を描写しており、読者の緊張感を高めます。
- 3. 部屋の中の静寂と、外の生命力あふれる音を対比することで、部屋の中の時間が止まっているかのような、姉の孤立した状況が強調されます。
- 4. 「母が心を込めて作った」や「心配してる」という記述から、家族が完全に「無関心」で「冷え切った関係」とまでは断定できません。むしろ、心配しているが、どうすることもできないもどかしい状況を示唆しています。「断定している」という部分が言い過ぎです。
語句説明:
くぐもった:声などが、口の中でこもってはっきりと聞こえない様子。
似つかわしくない:ふさわしくない。釣り合わない。
焦燥感(しょうそうかん):いらいらと焦る気持ち。