現代文対策問題 43
本文
その日、私は、一匹の犬を連れて、近所の公園を散歩していた。公園のベンチで、いつも見かける老人が、今日も一人、静かに座っている。私たちは、会えば挨拶を交わす程度の知り合いだ。しかし、その日は、私の連れていた犬が、老人の足元に駆け寄り、しきりに尻尾を振った。
「おや、珍しい。この犬は、人にはあまり懐かないと思っていたが」。私がそう言うと、老人は、ゆっくりと犬の頭を撫でながら、「犬には、分かるんですよ。寂しい人間がね」と、寂しげに笑った。その笑顔は、いつも遠くから見ていた、彼の穏やかな表情とは、少し違って見えた。
老人は、ぽつりぽつりと、自分のことを語り始めた。一年前に妻を亡くしたこと。子供たちは、皆、遠くに住んでいること。この公園で、ただ時間を過ごすのが、唯一の日課であること。私は、相槌を打つ以外、何もできなかった。彼の深い孤独が、短い言葉の端々から、痛いほど伝わってきたからだ。
帰り道、私は、いつもの挨拶の裏に隠されていた、彼の心の深淵を思った。私たちは、他人のことを、ほんの表面しか見ていないのかもしれない。犬は、言葉ではなく、心で、彼の寂しさを感じ取ったのだろう。私には聞こえなかった、彼の心の声を、この小さな生き物は、確かに聞いていたのだ。
【設問1】傍線部①「犬には、分かるんですよ。寂しい人間がね」という老人の言葉からうかがえる、彼の心境の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 犬好きであることをアピールし、「私」との会話のきっかけを作ろうとする、社交的な気持ち。
- 自分自身の孤独を、犬にだけは見抜かれていると感じ、自嘲するような、寂しい気持ち。
- 人間よりも、純粋な動物の方が、人の本質を見抜く力があるという、人間不信に近い気持ち。
- 犬が懐いてきたことを喜び、自分もまだ、誰かに受け入れられる存在なのだという、安堵の気持ち。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「社交的な気持ち」というよりは、「寂しげに笑った」とあるように、もっと内省的な心境です。
- 2. 老人は、犬が懐いてきた理由を「寂しい人間がね」と、自分自身のこととして語っています。これは、普段は人に見せることのない自分の「孤独」を、この犬だけは感じ取ってくれたのだ、という認識を示しています。その上で「寂しげに笑」うのは、その事実を少しおかしく、そして少し悲しく思う、「自嘲」的な心境を的確に表しています。
- 3. 「人間不信」というほど、強い拒絶の感情は読み取れません。
- 4. 「安堵の気持ち」もあるかもしれませんが、「寂しげに笑った」という描写からは、喜びよりも、自分の孤独を再確認したことによる、ほろ苦い感情の方が強いと解釈すべきです。
【設問2】傍線部②「私たちは、他人のことを、ほんの表面しか見ていない」という気づきを、「私」に与えた直接的なきっかけは何か。最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- いつも穏やかに見えていた老人が、実は深い孤独を抱えていたことを知ったこと。
- 自分の飼い犬が、見知らぬ他人の本質を、自分以上に見抜いていたという事実に驚いたこと。
- 老人との会話を通じて、現代社会における人間関係の希薄さを、改めて痛感したこと。
- 自分自身もまた、他人に心を開かず、表面的な付き合いしかしてこなかったことを、深く反省したこと。
【正промптと解説】
正解 → 1
- 1. 「私」は、老人を「会えば挨拶を交わす程度の知り合い」であり、「いつも遠くから見ていた、彼の穏やかな表情」という「表面」しか見ていませんでした。しかし、その日、彼の口から語られた「深い孤独」という内面を知ります。この、自分が認識していた外面と、初めて知った内面とのギャップこそが、「他人のことを、ほんの表面しか見ていない」という気づきをもたらした、最も直接的なきっかけです。
- 2. 犬がきっかけで老人の内面を知ることになりましたが、気づきの中心は、犬の能力ではなく、自分自身の人間に対する認識の浅はかさです。
- 3. 「現代社会」という大きな主語ではなく、あくまで「私」個人の気づきとして描かれています。
- 4. 「自分自身を反省した」という側面もありますが、その反省を促した直接のきっかけは、老人の内面を知ったという具体的な出来事です。
【設問3】本文における「犬」の役割についての説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 「私」と老人との間に存在する、社会的・世代的な断絶を、より一層際立たせる存在。
- 言葉を介さないコミュニケーションによって、隠された人間の本質的な感情を、明らかにする触媒としての存在。
- 人間社会の複雑さから逃避し、純粋な動物との交流の中にのみ、癒やしを見出そうとする、「私」の心情を映す鏡。
- 物語に偶然性を与え、意外な方向へと展開させるための、プロット上の都合の良い装置。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「断絶を際立たせる」のではなく、むしろ、二人の間を繋ぐきっかけとなっています。
- 2. 犬が老人に懐くという、言葉を介さない行動がきっかけとなり、老人は、普段は見せない「寂しい」という本音(本質的な感情)を語り始めます。つまり、犬は、人間同士の表面的な関係性の下に隠れていた、真実の感情を引き出すきっかけ(触媒)として機能しています。「私には聞こえなかった、彼の心の声を、この小さな生き物は、確かに聞いていた」という最後の文が、この役割を象徴しています。
- 3. 「私」の心情を映す鏡というよりは、老人の心情を映す鏡として機能しています。
- 4. 「都合の良い装置」という見方もできますが、物語の中での具体的な役割を問われているため、より内容に即した2が適切です。
【設問4】本文の内容と合致するものを、次の中から一つ選べ。
- 「私」の飼い犬は、誰にでもすぐ懐く、非常に人懐っこい性格だった。
- 老人は、「私」に対して、自分から積極的に身の上話を始めた。
- 「私」は、老人と出会う前から、彼の抱える深い孤独に気づいていた。
- 老人は、一年前に妻を亡くし、子供たちとは離れて暮らしていた。
【正解と解説】
正解 → 4
- 1. 「この犬は、人にはあまり懐かないと思っていたが」と「私」が言っていることから、間違いです。
- 2. 犬が懐いたことをきっかけに、「ぽつりぽつりと」語り始めたのであり、「積極的」ではありません。間違いです。
- 3. 「いつもの挨拶の裏に隠されていた、彼の心の深淵を思った」とあるように、この日に初めて知ったのです。間違いです。
- 4. 「一年前に妻を亡くしたこと。子供たちは、皆、遠くに住んでいること」と老人が語っており、内容と合致します。
語句説明:
懐く(なつく):慣れ親しんで、近寄ってくるようになる。
自嘲(じちょう):自分で自分のことを、軽んじたり、笑ったりすること。
相槌を打つ(あいづちをうつ):相手の話に合わせ、頷いたり、短い言葉を挟んだりして、聞いていることを示すこと。
深淵(しんえん):底知れぬ深い淵。ここでは、窺い知ることのできない、心の奥底。