現代文対策問題 39

本文

その日、私は、古い路地裏で、一匹の猫に出会った。片方の耳の先が少しだけ欠けていて、警戒心の強そうな、精悍な顔つきの猫だった。私が近づくと、猫はさっと身を翻し、塀の上に飛び乗って、こちらを窺っている。

私は、その猫に、どこか自分を重ねていたのかもしれない。この春、私は、希望していた部署とは全く違う、地方の支社に配属された。誰一人、知る人のいない土地。新しい環境に馴染もうとすればするほど、私は、心を閉ざし、周囲に対して、見えない壁を作っていた。あの猫のように、人を寄せ付けず、自分の殻に閉じこもっていたのだ。

次の日も、その次の日も、私は、その猫に会いに行った。話しかけるでもなく、ただ、遠くからその姿を眺めるだけ。猫もまた、私を警戒し、一定の距離を保ち続ける。そんな奇妙な関係が、一週間ほど続いただろうか。

その日の夕方、私がいつものように路地裏を訪れると、猫が、塀の上から、私の足元に、ことりと飛び降りた。そして、私の足に、一度だけ、するりと、その体を擦り寄せた。ほんの一瞬の出来事。しかし、その柔らかい感触と、ゴロゴロという微かな喉の音が、私の頑なな心を、優しく解きほぐしていくようだった。一人ぼっちだと思っていたこの町で、初めて、誰かと心が通ったような気がした。


【設問1】傍線部①「私は、心を閉ざし、周囲に対して、見えない壁を作っていた」とあるが、この時の「私」の心境の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 新しい環境で、自分の能力を正当に評価されないことへの、強い不満と反発心。
  2. 思い通りにならない現実に対する失望感と、これ以上傷つきたくないという、防衛的な気持ち。
  3. 都会の華やかな生活を奪われたことへの怒りと、田舎の単調な暮らしに対する、侮蔑の気持ち。
  4. 自分の人見知りな性格を自覚し、周囲と打ち解けることを、最初から諦めてしまっている状態。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「不満」や「反発心」という攻撃的な感情よりは、もっと内向的な心の動きが描かれています。
  • 2. 「希望していた部署とは全く違う」という「思い通りにならない現実」が、彼の心を閉ざすきっかけです。そして、新しい環境で「馴染もうとすればするほど」うまくいかない、という経験が、これ以上、心を開いて傷つくのを避けたい、という「防衛的な気持ち」に繋がっています。これが「見えない壁」の正体です。
  • 3. 「怒り」や「侮蔑」といった、他者を見下すような感情は読み取れません。
  • 4. 「諦めてしまっている」というよりは、「馴染もうと」努力はしたのです。その結果として、心を閉ざすに至っています。

【設問2】傍線部②猫が「私の足に、一度だけ、するりと、その体を擦り寄せた」という行動が、「私」の心を「優しく解きほぐし」たのはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 自分と同じように孤独だと思っていた猫が、実は人懐っこい性格だと分かり、親近感が湧いたから。
  2. 猫に気に入られたことで、自分が特別な存在だと感じ、失いかけていた自信を取り戻すことができたから。
  3. 警戒心の強い相手が、自分に対して心を開いてくれたと感じ、それによって自分の頑なな心も、自然と開かれていったから。
  4. 猫の気まぐれな行動に、人間の複雑な人間関係にはない、純粋ないたずら心を感じ、心が和んだから。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 猫が「人懐っこい性格」かどうかは分かりません。この行動は「私」に対してだけ見せた特別なものかもしれません。
  • 2. 「特別な存在」「自信を取り戻す」というほど大げさなものではなく、もっと静かで、相互的な心の交流です。
  • 3. 「私」は、警戒心の強い猫に、壁を作っている自分自身を重ねていました。その猫が、根気よく通い続けた自分に対して、警戒を解き、信頼を示してくれた(心を開いてくれた)。この、相手からの歩み寄りによって、「私」自身の心の壁もまた、解きほぐされていったのです。「一人ぼっちだと思っていたこの町で、初めて、誰かと心が通ったような気がした」という一文が、この解釈を裏付けています。
  • 4. 「いたずら心」ではなく、猫なりの信頼と好意の表現と受け取るのが自然です。

【設問3】本文における「私」と「猫」の関係についての説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 孤独な「私」が、一方的に猫に愛情を注ぎ、ペットとして飼い慣らすまでの過程を描いている。
  2. 互いに警戒し、距離を置いていた者同士が、時間をかけて、少しずつ信頼関係を築いていく様子を描いている。
  3. 人間と動物という、決して越えることのできない壁の存在と、そこから生まれるコミュニケーションの断絶を描いている。
  4. 人間社会に疲れた「私」が、気ままに生きる猫の姿に、自由への強い憧れを抱く様子を描いている。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「一方的に愛情を注ぎ」「飼い慣らす」という関係ではありません。むしろ、対等な存在として描かれています。
  • 2. 最初は、互いに「警戒」し、「一定の距離を保ち続け」ていました。しかし、「私」が毎日通うという「時間をかけ」た行動によって、最終的に猫が心を開き、二人の間に「信頼関係」が芽生えます。この、ゆっくりとした関係性の構築の過程を、的確に説明しています。
  • 3. 「コミュニケーションの断絶」ではなく、むしろ、言葉を超えたコミュニケーションが成立し、心が通い合った、という物語です。
  • 4. 「自由への憧れ」も少しはあるかもしれませんが、物語の中心は、孤独な者同士の魂の交流です。

【設問4】本文の内容と合致しないものを、次の中から一つ選べ。

  1. 「私」は、自分の望まない部署に配属され、知らない土地で生活することになった。
  2. 「私」が出会った猫は、人懐っこく、誰にでもすぐになつく性格だった。
  3. 「私」は、猫との出会いをきっかけに、孤立していた心が、少し癒やされた。
  4. 「私」は、猫に会うために、何日か続けて同じ場所を訪れていた。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「希望していた部署とは全く違う、地方の支社に配属された」「誰一人、知る人のいない土地」とあり、合致します。
  • 2. 「警戒心の強そうな、精悍な顔つき」「私を警戒し、一定の距離を保ち続ける」とあり、「人懐っこい」性格ではありません。明確に間違いです。
  • 3. 「頑なな心を、優しく解きほぐしていくようだった」「誰かと心が通ったような気がした」とあり、合致します。
  • 4. 「次の日も、その次の日も」「一週間ほど続いただろうか」とあり、合致します。

語句説明:
精悍(せいかん):顔つきや態度が、勇ましく、引き締まっているさま。
身を翻す(ひるがえす):体の向きを、くるりと変える。
頑な(かたくな):自分の意見や態度をかたくなに守り、譲らないさま。意地っ張り。
無下(むげ)に:相手の立場や気持ちを考えず、冷淡にあしらうさま。ないがしろにすること。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:39