現代文対策問題 35
本文
その日、私は、五年ぶりに故郷の駅に降り立った。最後にこの町を出たのは、大学進学のために上京した日だ。「東京で、必ず成功してみせる」。そんな、若さゆえの気負いに満ちた決意を、私は胸に抱いていた。しかし、現実は厳しかった。夢だったイラストレーターの仕事は、鳴かず飛ばず。都会の生活にも疲れ果て、私は、いわば、逃げるようにしてこの町に戻ってきたのだった。
駅前の商店街は、シャッターを下ろした店が目立ち、活気を失っていた。私の心境を映しているかのようだ。とぼとぼと歩いていると、一軒の駄菓子屋が、昔のままの姿で営業しているのが目に入った。子供の頃、百円玉を握りしめて通った店だ。
懐かしさに引かれて店に入ると、店番をしていたおばあさんが、「おや、タカシじゃないか」と、しわくちゃの顔で笑った。私のことなど、忘れているだろうと思っていた。それなのに、おばあさんは、私の名前を、ちゃんと覚えていてくれたのだ。そのことが、ささくれ立っていた私の心を、じんわりと温めた。
「東京は、どうだい」。おばあさんの問いに、私は、言葉を詰まらせた。成功したとは、とても言えない。しかし、おばあさんは、それ以上何も聞かず、黙ってラムネを一本、私に差し出した。「たまには、こういう甘いのも、いいだろう」。そのラムネの、あまりに優しい甘さが、乾ききっていた私の喉と、そして心に、ゆっくりと染み渡っていった。
【設問1】傍線部①「そのことが、ささくれ立っていた私の心を、じんわりと温めた」とあるが、それはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 自分のことを覚えていてくれる人が故郷にいると分かり、有名になったと勘違いして、自尊心が満たされたから。
- 都会で誰からも認められず、孤独を感じていた中で、自分の存在を記憶し、受け入れてくれる人がいることに、安堵したから。
- おばあさんが、自分の成功を確信してくれていたのだと感じ、その期待に応えなければならないという、新たな意欲が湧いたから。
- 昔と変わらないおばあさんの姿に、時が止まったような錯覚を覚え、辛い現実から一時的に逃避することができたから。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「有名になったと勘違い」したわけではありません。もっと個人的で、ささやかな心の動きです。
- 2. 「私」は、夢破れて「逃げるようにして」故郷に戻り、心が「ささくれ立って」いました。これは、都会で自分の価値を見出せず、強い孤独感を抱えていたことを示唆します。そんな中、自分のことを忘れずに覚えていてくれたおばあさんの存在は、「私」が一人ぼっちではないこと、帰る場所があることを実感させ、その心に「安堵」をもたらしたと考えられます。
- 3. おばあさんは「私」の現状を知りませんし、「私」も成功したとは言えない状況です。「期待に応えなければ」というプレッシャーを感じたわけではありません。
- 4. 「現実から逃避」したのではなく、むしろ、温かい現実(覚えていてくれる人がいる)に触れて、心が癒やされているのです。
【設問2】傍線部②おばあさんの「たまには、こういう甘いのも、いいだろう」という言葉に込められた、本当の意味合いとして最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 都会の洗練された味に慣れてしまっただろう「私」に、田舎の駄菓子の素朴な美味しさを再認識させようとしている。
- ラムネを無理に買わせることで、店の売上に貢献させようという、商売人としての計算高い意図が隠されている。
- 「私」が何か辛い思いを抱えていることを察し、ラムネの甘さのように、時には自分を甘やかし、休むことも大切だと、暗に伝えている。
- 子供の頃に「私」が好きだったラムネを差し出すことで、昔の思い出話に花を咲かせたいという、単純な気持ちの表れ。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 味覚の話をしているのではなく、もっと比喩的な意味合いが強い言葉です。
- 2. 「計算高い意図」は、この温かい場面の雰囲気とは相容れません。
- 3. 「私」が「言葉を詰まらせた」様子から、おばあさんは「私」が順風満帆ではないことを察しています。その上で、あえて詳しい事情は聞かず、「甘いもの」であるラムネを差し出します。これは、ラムネの物理的な甘さと、「自分を甘やかす」という比喩的な甘さをかけて、「辛いことばかり考えずに、たまには肩の力を抜いて休んでもいいんだよ」という、優しく、深い思いやりを伝えていると解釈するのが最も適切です。
- 4. 単なる思い出話のきっかけではなく、「言葉を詰まらせた」という状況に対する、明確な配慮と慰めの意図が感じられます。
【設問3】本文における「私」の心境の変化の説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 故郷の寂れた風景に失望していたが、昔ながらの店を発見し、思い出に浸ることで、現実から目を背けるようになった。
- 夢破れたことへの絶望感に打ちひしがれていたが、故郷の温かさに触れることで、再び東京で挑戦する勇気を取り戻した。
- 成功だけが人生の価値ではないと悟り、都会での生活を捨て、故郷でのんびりと暮らしていくことを決意した。
- 都会での失敗による孤独感や焦燥感に苛まれていたが、故郷の人情に触れ、心が少し癒やされ、前向きな気持ちの兆しが見えた。
【正解と解説】
正解 → 4
- 1. 「現実から目を背ける」のではなく、むしろ、温かい現実(人情)に触れることで、心を回復させています。
- 2. 「再び東京で挑戦する勇気」を取り戻した、とまでは書かれていません。まだ、心が癒やされ始めた段階です。
- 3. 「故郷でのんびりと暮らしていくことを決意した」という具体的な将来の決定まではしていません。
- 4. 「逃げるようにして」戻り、「ささくれ立っていた」という「孤独感や焦燥感」を抱えていた「私」が、おばあさんの優しさ(人情)に触れ、心が「じんわりと温ま」り、「染み渡っていった」という、心の「癒やし」の過程を的確に説明しています。劇的な変化ではなく、あくまで「少し癒やされ」「兆しが見えた」という穏やかな変化である点も、本文のトーンと合致します。
【設問4】本文の内容と合致しないものを、次の中から一つ選べ。
- 「私」は、東京での生活に成功し、錦を飾る形で故郷に帰ってきた。
- 「私」が訪れた駄菓子屋は、昔とほとんど変わらない様子で営業していた。
- 駄菓子屋のおばあさんは、久しぶりに会った「私」のことを、ちゃんと覚えていた。
- おばあさんは、「私」が何か悩みを抱えていることを、その様子から察していた。
【正解と解説】
正解 → 1
- 1. 「夢だったイラストレーターの仕事は、鳴かず飛ばず」「逃げるようにしてこの町に戻ってきた」とあり、「成功し、錦を飾る」という状況とは正反対です。明確に間違いです。
- 2. 「昔のままの姿で営業しているのが目に入った」とあり、合致します。
- 3. 「おや、タカシじゃないか」と名前を呼ばれており、合致します。
- 4. 「私」が「言葉を詰まらせた」後、それ以上は聞かずにラムネを差し出すという行動から、彼女が何かを察していることがうかがえます。合致します。
語句説明:
気負い(きおい):自分こそはと、いきりたつ気持ち。負けまいとする強い気持ち。
高をくくる(たかをくくる):大したことはないと見くびる。甘く見る。
ささくれ立つ:ここでは、感情が荒れて、とげとげしくなること。
染み渡る(しみわたる):液体が染み込むように、感動や感情が、心や身体に深く、ゆっくりと広がること。