現代文対策問題 32
本文
その日の放課後、私は、図書委員の仕事で、古い本の整理をしていた。書庫の隅で、誰も読まなくなったであろう児童文学全集を手に取った時、一冊の本の間に、一枚の古い図書カードが挟まっているのを見つけた。
貸出日、昭和五十四年十月十六日。返却予定日、昭和五十四年十月三十日。しかし、返却日の欄は、空白のままだった。借り主の名前は、「佐藤徹」。知らない名前だ。おそらく、何十年も前にこの学校を卒業した、大先輩なのだろう。
私は、その一枚のカードを、しばらく眺めていた。この「佐藤徹」という人は、どんな少年だったのだろうか。どんな思いで、この本を借りていったのだろう。そして、なぜ、この本を返さなかったのだろうか。病気になったのかもしれない。あるいは、引っ越してしまったのかもしれない。返却予定日を一日、また一日と過ぎていく中で、彼は、この本のことを、どんな気持ちで思い出していたのだろう。
たった一枚の、インクの滲んだ図書カード。それは、顔も知らない誰かの、ささやかな物語の断片だった。私は、そのカードを、そっと元のページに戻した。この本を、このまま、書庫の隅に眠らせておくことが、彼への、そして、彼の過ごした時間への、ささやかな敬意のように思えたからだ。返却されなかった本だけが、持ち主の物語を、永遠に語り続けることができる。
【設問1】傍線部①「なぜ、この本を返さなかったのだろうか」とあるが、この時の「私」の気持ちの説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 本の返却を怠った「佐藤徹」という人物の、無責任な行動に対して、強い憤りを感じている。
- 未返却の本を見つけたことで、図書委員としての自分の仕事が増えることになり、うんざりしている。
- 顔も知らない過去の生徒の行動の裏にある物語を想像し、そのミステリアスな部分に、好奇心を掻き立てられている。
- 学校の備品を紛失させた「佐藤徹」を探し出し、弁償させるべきだという、強い正義感に燃えている。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「憤り」というネガティブな感情ではなく、むしろ、その背景に思いを馳せています。
- 2. 「うんざりしている」という気持ちは読み取れません。むしろ、この発見を楽しんでいるようにさえ見えます。
- 3. 「どんな少年だったのだろうか」「どんな思いで」と、知らない人物の過去に想像を巡らせています。そして、返却されなかったという事実に対し、「病気になったのかも」「引っ越したのかも」とその理由をあれこれと考えるのは、まさに「物語の裏側」への強い「好奇心」の表れです。
- 4. 「探し出し、弁償させるべきだ」というような、現実的な対応を考えているわけではありません。物語はもっと情緒的なレベルで進んでいます。
【設問2】傍線部②「この本を、このまま、書庫の隅に眠らせておくこと」が、「彼への、そして、彼の過ごした時間への、ささやかな敬意のように思えた」のはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 未返却という事実を正式に記録に残すことで、彼の過ちを後世に伝え、戒めとすることが重要だと考えたから。
- この本が、返却されないまま時が止まっているからこそ、「佐藤徹」という個人の物語を内包し続ける特別な存在になると考えたから。
- 今さらこの本を動かすことで、学校に迷惑をかけた「佐藤徹」の存在が明るみに出て、彼の子孫に迷惑がかかることを恐れたから。
- この本を誰にも見つからないように隠すことで、自分の発見を独り占めしたいという、独善的な気持ちが芽生えたから。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「戒め」という否定的な意味合いではなく、「敬意」という肯定的な感情です。
- 2. 「返却されなかった本だけが、持ち主の物語を、永遠に語り続けることができる」という最後の文が、この選択肢の理由を直接的に説明しています。もしこの本が正規の手続きで処理されれば、それはただの古い本に戻ってしまいます。しかし、「未返却」という形で時が止まっているからこそ、それは「佐藤徹」という一人の少年の物語を秘めた、唯一無二の存在でいられるのです。その物語を壊さずに、そのままにしておくことが、彼と彼の生きた時間への「敬意」だと「私」は考えたのです。
- 3. 「彼の子孫に迷惑が」といった、現実的な配慮が主題ではありません。
- 4. 「独り占め」という所有欲ではなく、物語をそっとそのままにしておくという、距離を置いた敬意です。
【設問3】本文における「返却日の欄が空白のままの図書カード」が持つ意味についての説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 当時の図書委員の、仕事に対する怠慢さを示す、動かぬ証拠。
- 持ち主の物語が未完のまま中断され、時が止まっていることを示す、象徴的な小道具。
- 昭和時代の、デジタル化されていない、アナログな管理システムの限界を示す、歴史的な資料。
- 学校の備品管理のずさんさを告発し、システム改善を訴えるための、社会的なメッセージ。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「図書委員の怠慢」が主題ではありません。物語はもっとロマンティックな方向に進みます。
- 2. 「貸出」で始まり、「返却」で終わるのが、図書カードの物語です。しかし、このカードは「返却日の欄は、空白のまま」であり、物語が途中で終わっています。この「未完」の状態こそが、「私」の想像力を掻き立て、「佐藤徹」という個人の「物語」を想起させます。図書カードは、時が止まった少年の物語を暗示する、非常に効果的な「象徴的アイテム」として機能しています。
- 3. 「管理システムの限界」といった、社会制度論的な分析は、この物語の趣旨ではありません。
- 4. 「社会的なメッセージ」ではなく、個人の内面的な発見や想像がテーマです。
【設問4】本文の内容と合致しないものを、次の中から一つ選べ。
- 「私」は、図書委員の仕事として、書庫の整理をしていた。
- 「私」が見つけた図書カードは、数十年前に使われたものだった。
- 「私」は、図書カードに書かれていた「佐藤徹」という名前を知っていた。
- 「私」は、見つけた図書カードを、本に挟んだままにしておいた。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「図書委員の仕事で、古い本の整理をしていた」とあり、合致します。
- 2. 「昭和五十四年」とあり、現在から数十年が経過していることがわかります。合致します。
- 3. 借り主の名前は、「佐藤徹」。知らない名前だ」と明確に書かれており、間違いです。
- 4. 「私は、そのカードを、そっと元のページに戻した」とあり、合致します。
語句説明:
書庫(しょこ):図書館などで、本を保管しておく部屋。
気圧される(けおされる):相手の勢いや雰囲気に圧倒されて、気後れする。
断片(だんぺん):全体から切り離された、一部分。
敬意(けいい):相手を尊び、うやまう気持ち。