現代文対策問題 3
本文
高校生の俺にとって、父は「つまらない大人」の象徴だった。毎朝同じ電車に乗り、夜遅くに疲れた顔で帰ってくる。休日と言えば、リビングでぼんやりとテレビを見ているか、昼寝をしているか。そんな父との会話は、ここ数年ほとんどなかった。俺は、父の世界がひどく退屈なものに思えて、内心で軽んじていた節がある。
その夜、俺は自室で参考書を広げていたが、どうにも集中できなかった。ふと階下から、何かが床に落ちる重い音がした。静寂を破るその音に、俺は少し驚いてそっと部屋を出た。リビングを覗くと、父がスーツの上着を脱いだまま、玄関マットの上に座り込んでいた。傍らには、いつも父が持ち歩いている黒い革鞄が転がっている。その鞄の留め金が壊れ、中から書類が数枚、雪崩のように散らばっていた。
父はそれに気づく様子もなく、ただ項垂れている。リビングの明かりに照らされた父の背中は、俺が知っているよりもずっと小さく、頼りなく見えた。散らばった書類を拾い集めようと屈んだ時、俺は初めて父の鞄を間近で見た。何度も修理したであろう縫い目の跡、擦り切れた角、至る所についた無数の傷。それは、俺の知らない父の時間を雄弁に物語っていた。
「父さん」と声をかけると、父はゆっくりと顔を上げた。その顔には、いつもの無表情とは違う、深い疲労の色が刻まれていた。俺は何も言えず、ただ散らばった書類を拾い集め、父の鞄にそっと戻した。退屈だと思っていた父の世界に、俺の知らない戦いがあることを、その時初めて垣間見た気がした。
【設問1】傍線部「それは、俺の知らない父の時間を雄弁に物語っていた」とあるが、この鞄を見て「俺」が感じ取ったことの説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 父が会社の備品を大切に扱わず、物をぞんざいに扱う無神経な性格であること。
- 父が経済的に困窮しており、新しい鞄を買う余裕すらないほど切羽詰まった状況であること。
- 父が長年にわたり、自分の知らない場所で苦労を重ねながら働き続けてきたということ。
- 父が古い物をいつまでも使い続ける、時代遅れで変化を嫌う頑固な人間であること。
【設問2】この出来事を通じた「俺」の父に対する認識の変化として、最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 退屈で無気力な大人だと思っていたが、実は家族にも言えない大きな秘密を抱えた危険な人物かもしれないと疑うようになった。
- これまで父を尊敬していたが、疲れ果ててだらしない姿を目の当たりにし、軽蔑の気持ちを抱くようになった。
- 無関心で軽んじる対象だったが、父の背負う重圧や苦労の一端に触れ、その存在をこれまでとは違う目で見つめ直すようになった。
- 父の私生活に興味を持つようになったが、結局は理解できないと感じ、これまで以上に父との間に距離を置くことを決めた。
【設問3】本文の内容に照らして、**間違っているもの**を、次の中から一つ選べ。
- 「俺」は、以前は父親とのコミュニケーションをほとんど取っていなかった。
- 「俺」は、父親がいつも持ち歩いている鞄が、ひどく使い込まれていることに初めて気づいた。
- 父親は、鞄から散らかった書類を息子に拾わせ、自分の苦労を積極的にアピールした。
- 父親の姿を見て、「俺」は父親が日々何かと戦っているのだろうと推測した。
【設問4】本文の表現に関する説明として、**適当でないもの**を、次の中から一つ選べ。
- 「つまらない大人」から「俺の知らない戦い」へと父の印象が変わる過程が、「俺」の視点から描かれている。
- 「ずっと小さく、頼りなく見えた」という父の背中の描写は、「俺」の父に対する見方が変化するきっかけとなっている。
- 壊れた鞄や散らばった書類という出来事が、「俺」に父の知らない一面を気づかせるための重要な小道具として機能している。
- 終始一貫して「俺」の冷めた視点から父を描くことで、父子の断絶という現代的なテーマを浮き彫りにしている。
【正解と解説】
設問1:正解 → 3
- 1. 「物をぞんざいに扱う」のではなく、修理の跡などから、むしろ長く使い続けてきたことがわかります。
- 2. 「経済的に困窮」しているかどうかは本文からは断定できません。鞄の状態は、金銭的な問題というより、長年の使用によるものと解釈するのが自然です。
- 3. 「何度も修理したであろう縫い目の跡」や「無数の傷」が、長い年月の苦労を象徴していると読み取るのが最も適切です。「雄弁に物語っていた」という表現がそれを示唆します。
- 4. 「時代遅れで頑固」という否定的な見方は、この場面の「俺」の気づきとは異なります。むしろ、尊敬の念に近い感情が芽生え始めています。
設問2:正解 → 3
- 1. 「危険な人物」「疑う」といったサスペンス的な解釈は、本文の静かな気づきのトーンとは全く異なります。
- 2. 出来事の前は「軽んじていた」のであり、「尊敬していた」わけではありません。また、最終的に「軽蔑」したのではなく、むしろ逆の感情を抱いています。
- 3. 「内心で軽んじていた」状態から、父の疲労や使い古された鞄を見て「俺の知らない戦い」を垣間見る、という認識の変化を正確に説明しています。
- 4. 「距離を置くことを決めた」という結末は、父の鞄に書類を「そっと戻した」という行動や、最後の気づきと矛盾します。むしろ、心理的な距離は縮まっています。
設問3:正解 → 3
- 1. 「父との会話は、ここ数年ほとんどなかった」という記述と一致します。
- 2. 「俺は初めて父の鞄を間近で見た」という記述と一致します。
- 3. 父は「それに気づく様子もなく、ただ項垂れて」おり、自ら苦労をアピールしたわけではありません。「俺」が自発的に行動し、感じ取ったことです。したがって、この選択肢は明確に間違っています。
- 4. 「俺の知らない戦いがあることを、その時初めて垣間見た気がした」という最後の文と一致します。
設問4:正解 → 4
- 1. まさにその通りで、物語全体が「俺」の父に対する認識の変化を描いています。
- 2. 弱々しい背中を見たことで、「俺」は父のこれまで見えなかった側面に気づき始めます。重要な転換点です。
- 3. この具体的なモノ(鞄)や出来事がなければ、「俺」の抽象的な気づきは生まれませんでした。物語の展開上、不可欠な要素です。
- 4. 「冷めた視点」は物語の序盤だけであり、終盤では父の内面に寄り添うような温かい視点に変化しています。「終始一貫して」という部分が明確な誤りです。
語句説明:
軽んじる(かろんじる):軽く見て、重要でないものとして扱う。
節がある(ふしがある):そういう傾向がある。思い当たることがある。
項垂れる(うなだれる):がっかりしたり悲しんだりして、力なく首を前に倒す。
雄弁(ゆうべん):言葉や文章が力強く、説得力があること。ここでは、物が声なく何かを強く語りかけてくる様子。