現代文対策問題 25
本文
アパートの隣の部屋に、一人の老婦人が越してきた。私が挨拶に伺うと、ドアの隙間から、いぶかしげな目がこちらを覗くだけで、すぐにドアは閉ざされてしまった。聞けば、近所でも気難しいことで有名らしく、誰ともほとんど口をきかないという。
ある雨の日の夕方、私が傘をさしてアパートに戻ると、その老婦人が、郵便受けの前で立ち往生していた。どうやら、鍵を落としてしまったらしい。雨に濡れながら、必死に足元を探している。私は、「どうかしましたか」と声をかけた。彼女は、一瞬、狼狽したような、しかし、助けを求めることをためらうような複雑な表情を浮かべた。
私は何も言わず、持っていたスマートフォンのライトで、彼女の足元を照らし始めた。しばらくすると、植え込みの根元で、小さな銀色の鍵が鈍い光を放っているのが見つかった。「あった!」と、思わず私の口から声が漏れる。彼女は、私から鍵を受け取ると、小さな声で「……ありがとう」とだけ言って、足早に部屋に戻っていった。
次の日の朝、私の部屋のドアノブに、小さな布袋がかけられていた。中には、手作りの焼き菓子が数個と、「昨日はありがとう」とだけ書かれた、拙い字のメモが入っている。彼女なりの、精一杯の感謝の表現なのだろう。私は、無愛想な壁の向こう側にある、不器用で温かい心に触れた気がした。その焼き菓子は、どんな有名店のケーキよりも、ずっと甘く感じられた。
【設問1】傍線部①「狼狽したような、しかし、助けを求めることをためらうような複雑な表情」から読み取れる、この時の老婦人の心情の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 見知らぬ相手に助けを求めることへの恐怖と、このままでは家に帰れないという絶望感。
- 日頃の自分の無愛想な態度が原因で、助けてもらえないのではないかという不安と、それでも助けてほしいという切実な願い。
- 困っているところを他人に見られたことへの羞恥心と、他人の助けなど借りず、自力で解決したいという意地。
- 認知症の症状が進行し、自分が誰で、なぜここにいるのかが分からなくなってしまったことによる混乱。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「恐怖」や「絶望感」というほど大げさな状況ではありません。あくまで鍵を落としたという日常的なトラブルです。
- 2. 自分の日頃の態度を省みているかどうかは本文からは分かりません。彼女の心情はもっとプライドに関わるものである可能性が高いです。
- 3. 「狼狽」は、予期せぬトラブルで困っている状態を示します。そして、普段から「誰ともほとんど口をきかない」彼女が、人に助けを求めるのは、彼女のプライド(意地)が許さないでしょう。しかし、現実として困っている。この「羞恥心」や「意地」と、助けてほしいという現実的な必要性との間の葛藤が、「複雑な表情」を的確に説明しています。
- 4. 「認知症」であるという記述は一切なく、飛躍した解釈です。
【設問2】傍線部②「私は、無愛想な壁の向こう側にある、不器用で温かい心に触れた気がした」とあるが、これはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 老婦人が、実は裕福で、高価な菓子折りを贈ることで、感謝の気持ちを表現したことに感動した。
- 老婦人が、これまでの無愛想な態度を改め、これからは隣人として親しく付き合っていこうという意思表示を受け取った。
- 老婦人が、直接お礼を言うのが苦手なだけで、手作りの品とメモという形で、誠実な感謝を伝えてくれようとしていると感じた。
- 老婦人が、自分の作ったお菓子を他人に評価してもらいたいという、承認欲求を抱えていることに気づいた。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 贈られたのは「手作りの焼き菓子」であり、「高価な菓子折り」ではありません。感動の中心は、金額ではなく、その行為に込められた心です。
- 2. これから「親しく付き合っていこう」とまで考えているかは分かりません。あくまで今回の件に対する感謝の表現です。
- 3. 「無愛想な壁」とは、普段の彼女の態度です。しかし、ドアノブにかけられた「手作りの焼き菓子」と「拙い字のメモ」は、面と向かっては表現できない、彼女なりの「不器用」で、しかし誠実な「温かい心(=感謝)」の表れです。この、表面的な態度と内面の温かさのギャップに触れた、という説明が最も適切です。
- 4. 「承認欲求」という解釈は、このささやかで誠実な感謝の行為を、自己中心的なものとして捉えすぎており、文脈に合いません。
【設問3】本文の内容に照らして、「私」と老婦人の関係性の変化の説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- お互いに無関心であったが、一つの出来事をきっかけに、互いの人間性に対する理解が少しだけ深まった。
- 「私」が一方的に警戒していたが、老婦人の親切さに触れ、自分の偏見を反省し、尊敬の念を抱くようになった。
- 老婦人が一方的に「私」を警戒していたが、「私」の親切な行為によって、完全に心を開き、親友のような関係になった。
- 最初は良好な関係だったが、鍵の事件をきっかけに、互いに気まずい空気が流れるようになってしまった。
【正解と解説】
正解 → 1
- 1. 当初は挨拶をしても無視されるような「無関心」に近い関係でした。しかし、鍵を探すという「一つの出来事」を通じて、「私」は老婦人の不器用な優しさを知り、老婦人は「私」の親切を受け入れました。これにより、表面的な付き合いから、互いの「人間性に対する理解が少しだけ深まった」という説明が、最も穏当で的確です。
- 2. 警戒していたのは「私」ではなく、老婦人の方です。主客が逆になっています。
- 3. 「完全に心を開き、親友のような関係になった」とまでは言い切れません。あくまで、関係改善の小さな一歩です。
- 4. 関係は「良好」ではなく、むしろ改善されています。逆の説明です。
【設問4】本文の内容と合致するものを、次の中から一つ選べ。
- 老婦人は、越してきた「私」を、笑顔で温かく家に迎え入れた。
- 「私」は、困っている老婦人を無視して、自分の部屋にまっすぐ帰った。
- 老婦人は、「私」へのお礼として、高級レストランの食事券を贈った。
- 「私」は、老婦人からもらった焼き菓子を、とても美味しく感じた。
【正解と解説】
正解 → 4
- 1. 「いぶかしげな目がこちらを覗くだけで、すぐにドアは閉ざされてしまった」とあり、間違いです。
- 2. 「どうかしましたか」と声をかけ、鍵を探すのを手伝っており、間違いです。
- 3. 「手作りの焼き菓子が数個」入っていたとあり、間違いです。
- 4. 「その焼き菓子は、どんな有名店のケーキよりも、ずっと甘く感じられた」という記述から、非常に美味しく感じたことがわかります。これが内容と合致します。
語句説明:
いぶかしげな:怪しいと思い、疑っているような様子。
立ち往生(たちおうじょう):進むことも退くこともできず、途中で動きが取れなくなること。
狼狽(ろうばい):予期せぬ出来事に驚き、慌てふためくこと。
拙い(つたない):物事のやり方や出来ばえが下手である。巧みでない。