現代文対策問題 24

本文

その日、私は初めて、一人でカウンターの寿司屋に入った。これまでは、値段が怖くて、あるいは、その静かな空気に気圧されて、店の前を通り過ぎるばかりだった。しかし、四十歳を目前にした今日、何か一つ、自分の中の小さな壁を越えてみたくなったのだ。

「いらっしゃい」。白衣をまとった大将が、低い声で私を迎える。カウンターに座ると、目の前のガラスケースには、磨き上げられたように新鮮な魚が並んでいた。何を頼んでいいか分からず、戸惑っている私に、大将は「お決まりで?」とだけ尋ねた。私は頷くしかなかった。

一貫、また一貫と、目の前の皿に寿司が置かれていく。大将は、魚の名前や産地をいちいち説明したりはしない。ただ、無駄のない、流れるような手つきで寿司を握る。その所作の一つ一つが、長年の修練に裏打ちされたものであることが、素人の私にも分かった。私は、いつの間にか、その手つきに見入っていた。それは、まるで一つの完成された舞踊のようでもあった。

最後に、温かいお茶を一口すする。会計を済ませて店を出る私に、大将は「ありがとうございました」と、入った時と同じ、淡々とした声をかけた。結局、私と大将が交わした言葉は、ごくわずかだ。しかし、不思議な満足感が、私の心を占めていた。私は、ただ寿司を味わっただけではない。職人の仕事に対する静かで、揺るぎない誇り。その気概のようなものを、全身で味わわせてもらったのだ。背筋が、すっと伸びるような気がした。


【設問1】傍線部①「自分の中の小さな壁を越えてみたくなった」とあるが、この時の「私」の心境の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 経済的に成功を収めたので、その証として、これまで手が出なかった高級店を試してみようと思った。
  2. 人生の節目を前に、これまで経験したことのない新しい世界に足を踏み入れることで、自分を試してみたくなった。
  3. 友人たちとの間で流行している高級寿司店に行くために、一人で下見をしておこうと考えた。
  4. 自分の食に対する見識を広げるために、食文化の頂点である寿司について、本格的に学んでみようと思った。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「経済的に成功を収めた」という記述はありません。動機はもっと内面的なものです。
  • 2. 「四十歳を目前にした」という人生の「節目」に、「これまでは、値段が怖くて、あるいは、その静かな空気に気圧されて」いたという「小さな壁」を越えようとしています。これは、未知の経験に挑戦することで、自分自身の成長や変化を確かめたいという、内的な動機を的確に説明しています。
  • 3. 「友人たちとの流行」といった、他者の影響は書かれていません。あくまで「一人で」という、個人的な挑戦です。
  • 4. 「本格的に学んでみよう」という学術的な探究心ではなく、経験そのものへの挑戦です。

【設問2】傍線部②「私は、ただ寿司を味わっただけではない」とは、どういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 大将との会話を通じて、魚に関する専門的な知識や、人生についての深い教訓を得ることができた。
  2. 寿司そのものの味だけでなく、職人の無駄のない所作や、店の凜とした空気に触れ、その背後にある精神性まで感じ取った。
  3. 値段が高いだけの寿司と、本当に価値のある寿司との違いを、身をもって体験し、本物を見抜く目を養うことができた。
  4. 一人で高級店に入れたという達成感で、寿司の味が普段よりも格段に美味しく感じられ、特別な体験ができた。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「私と大将が交わした言葉は、ごくわずかだ」とあるように、「会話」が中心ではありません。
  • 2. 「私は、いつの間にか、その手つきに見入っていた」「それは、まるで一つの完成された舞踊のようでもあった」という描写や、最後の「職人の仕事に対する静かで、揺るぎない誇り。その気概のようなものを、全身で味わわせてもらった」という独白が、この選択肢の内容を完全に裏付けています。味覚だけでなく、視覚や雰囲気を含めた全感覚で、職人の精神性(気概)を感じ取ったのです。
  • 3. 他の店との「違い」を比較しているわけではありません。この店での体験そのものが主題です。
  • 4. 「達成感」も満足感の一因でしょうが、「ただ寿司を味わっただけではない」理由としては、職人の仕事ぶりに触れたことの方が、より本質的です。

【設問3】本文における大将の人物像の説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 客との会話を楽しむ、気さくでサービス精神旺盛な職人。
  2. 自分の技術に絶対の自信を持ち、客にもそれを雄弁に語って聞かせる職人。
  3. 口数は少ないが、自身の仕事に誇りを持ち、洗練された技術で客をもてなす職人。
  4. 伝統を重んじるあまり、新しい客に対しては、やや排他的な態度をとる職人。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 「交わした言葉は、ごくわずかだ」「淡々とした声をかけた」とあり、「気さく」で「おしゃべり」な人物ではありません。
  • 2. 「雄弁に語って聞かせる」のではなく、黙々と仕事をこなすタイプです。誇りは、言葉ではなく態度で示されています。
  • 3. 「口数は少ない」が、「無駄のない、流れるような手つき」という「洗練された技術」を持ち、その仕事ぶりから「静かで、揺るぎない誇り」が感じられます。本文の描写から読み取れる大将の人物像を、最も過不足なく説明しています。
  • 4. 初めて来た「私」を拒絶するような「排他的な態度」は見られません。淡々としていますが、プロとしてきちんと迎えています。

【設問4】この体験が「私」に与えた影響についての記述として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 食に対する価値観が大きく変わり、これからは高級店にしか行かないと心に決めた。
  2. 職人の生き様に感銘を受け、自分も会社を辞めて、職人の道を目指そうと考え始めた。
  3. 本物の仕事に触れたことで、心が満たされ、自分の生き方にも良い刺激や張りを与えられた。
  4. 大将との間に深い友情が芽生え、これからはこの店の常連客になろうと決心した。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 「高級店にしか行かない」という極端な決意は読み取れません。
  • 2. 「職人の道を目指そう」とまで考えるのは、飛躍した解釈です。
  • 3. 「不思議な満足感が、私の心を占めていた」「背筋が、すっと伸びるような気がした」という最後の記述は、この体験が「私」にとって単なる食事以上の価値を持ち、精神的に良い影響(刺激や張り)を与えたことを示唆しています。これが最も穏当で的確な説明です。
  • 4. 「深い友情が芽生え」たわけではありません。交わした言葉はごくわずかであり、あくまで客と職人としての一期一会の出会いです。

語句説明:
気圧される(けおされる):相手の気迫に圧倒されて、気後れする。
所作(しょさ):身のこなし。振る舞い。
修練(しゅうれん):精神や技能を、繰り返し努力して鍛えること。
気概(きがい):困難に屈しない、強い意志や気性。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:24