現代文対策問題 21
本文
その日、街には冷たい木枯らしが吹いていた。私は、三ヶ月前に会社を辞めてから、これといった目的もないまま、日々をやり過ごしている。貯金が減っていくことへの焦りがないわけではない。だが、それ以上に、社会という大きな歯車から弾き出されてしまったような無力感が、私を支配していた。
公園のベンチに座り、熱い缶コーヒーで指先を温めていると、一人の少年が私の足元に駆け寄ってきた。手には、紐が切れてしまったのだろう、見るからに古びた凧が握られている。「おじさん、これ、直せる?」。少年は、不安そうな目で私を見上げた。私は、子供の相手は得意ではない。一度は断ろうかと思った。しかし、その真っ直ぐな瞳に、なぜか断りきれないものを感じた。
私は黙って凧を受け取り、その構造を眺めた。幸い、単純な作りだった。コンビニで買ったばかりの雑誌の付録についていた紐を解き、凧の骨に、不器用ながらも、きつく結びつけてやる。少年は、私の手元を食い入るように見つめていた。「……できたよ」。私がそう言って凧を手渡すと、少年は「ありがとう!」と満面の笑みを浮かべ、駆け出していった。
すぐに、少年が揚げた凧が、灰色の空に高く舞い上がった。風を受けて、ぐんぐんと。その姿を、私はただ、呆然と見上げていた。ちっぽけな達成感が、冷え切った私の心を、ほんの少しだけ温めてくれた。明日、何か新しいことを始めてみようか。そんな、忘れていたはずの小さな希望が、凧の糸に引かれるように、空の彼方から舞い降りてきた気がした。
【設問1】傍線部①「その真っ直ぐな瞳に、なぜか断りきれないものを感じた」とあるが、この時の「私」の心情の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 子供に好かれる自分の性格を再認識し、得意な分野で能力を発揮したいという欲求が湧いた。
- 社会から孤立していると感じていた中で、他者から純粋な信頼を寄せられ、無下にはできないと感じた。
- 面倒な頼み事をされたことへの苛立ちを覚えつつも、大人として対応せざるを得ないという義務感に駆られた。
- 少年の姿に、かつて夢を抱いていた頃の自分を重ね合わせ、感傷的な気持ちになった。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「子供の相手は得意ではない」とあるため、間違いです。
- 2. 「社会という大きな歯車から弾き出されてしまったような無力感」を感じている「私」にとって、少年からの「おじさん、これ、直せる?」という屈託のない信頼のこもった依頼は、自分がまだ社会や他者との接点を持ち、誰かの役に立てる存在なのだと感じさせるものでした。その純粋な期待を「無下にはできない」と感じた、という説明が最も状況に合致します。
- 3. 「苛立ち」という感情は読み取れません。「なぜか断りきれない」という、むしろ自身の心に生じた肯定的な変化に戸惑っている様子がうかがえます。
- 4. 少年の姿に自分を「重ね合わせ」ているという記述はなく、あくまで自分と少年という他者との関係性の問題です。
【設問2】傍線部②「ちっぽけな達成感が、冷え切った私の心を、ほんの少しだけ温めてくれた」とあるが、これはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 自分の手先の器用さを再確認できたことで、失いかけていた自信を完全に取り戻すことができた。
- 少年を助けたことで、いずれ大きな見返りが期待できると感じ、将来への希望が湧いてきた。
- 自分のした些細な行為が、誰かを笑顔にし、具体的な成果として目に見えたことに、ささやかな喜びを感じた。
- 凧を揚げた少年から、もっと感謝されるべきだと感じたが、その期待が満たされなかったことへの物足りなさ。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「完全に取り戻す」というほど大げさなものではなく、「ちっぽけな」「ほんの少しだけ」とあるように、ささやかな変化です。
- 2. 「見返り」を期待するような打算的な心情は、本文の清々しい雰囲気とは合いません。
- 3. 無力感に苛まれていた「私」が、凧を直すという「些細な行為」をする。それが、少年を「満面の笑み」にし、凧が「高く舞い上がった」という「目に見える成果」に繋がる。この一連の経験が、自分が世界に対して無力ではないという感覚を呼び覚まし、「ささやかな喜び」をもたらしたと解釈するのが最も自然です。
- 4. 「感謝されるべきだ」という思いは読み取れません。むしろ、感謝されたことや凧が揚がったこと自体を、呆然と、しかし肯定的に受け止めています。
【設問3】本文における「凧」が象徴するものについての説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 「私」が失ってしまった、子供の頃の無邪気さや純粋な心。
- 「私」が会社を辞める原因となった、人間関係のしがらみや束縛。
- 一度は失われたものが、再生し、再び未来へ向かう可能性。
- コントロールできない、予測不可能な人生の浮き沈み。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「凧」そのものが「私」の子供時代と直接結びついているわけではありません。
- 2. 「しがらみや束縛」といったネガティブな象徴ではありません。最後には空高く舞い上がっています。
- 3. 「紐が切れて」飛べなくなった凧(=社会から弾き出され、希望を失った「私」)が、「私」の手によって修理され(=他者との関わり)、再び「空に高く舞い上がった」(=未来への希望を取り戻した)。このように、凧の状況と「私」の心境がリンクしており、「再生」と「未来への可能性」を象徴していると解釈するのが最も適切です。
- 4. 「コントロールできない」という側面もありますが、最終的には人の手によって修理され、空に揚がっており、人の意志や希望が介在しています。
【設問4】本文の内容と合致するものを、次の中から一つ選べ。
- 「私」は、会社を辞めた後、すぐに次の仕事を見つけて精力的に活動していた。
- 「私」は、自分の持っていた道具を使って、手際よく凧を修理してやった。
- 少年は、凧を直してもらった後、すぐに「私」の前から走り去っていった。
- 「私」は、少年との出会いをきっかけに、すぐに会社に復職する決意を固めた。
【正解と解説】
正解 → 3
- 1. 「これといった目的もないまま、日々をやり過ごしている」とあり、間違いです。
- 2. 「コンビニで買ったばかりの雑誌の付録についていた紐」を使っており、「不器用ながらも」直したとあるため、間違いです。
- 3. 「『ありがとう!』と満面の笑みを浮かべ、駆け出していった」とあり、内容と合致します。
- 4. 「明日、何か新しいことを始めてみようか」と思っただけであり、「すぐに会社に復職する決意」まではしていません。
語句説明:
木枯らし(こがらし):晩秋から初冬にかけて吹く、冷たく強い北風。
無下(むげ)に:相手の立場や気持ちを考えず、冷淡にあしらうさま。ないがしろにすること。
食い入るように:視線をそらさず、じっと見つめるさま。
呆然(ぼうぜん):あっけにとられて、我を忘れてぼんやりするさま。