現代文対策問題 20

本文

その日、私は一本の傘を、どうしても捨てることができずにいた。それは、五年前に別れた恋人、健太が、最後の日に置いていったビニール傘だった。ありふれた、コンビニで誰もが買うような、何の変哲もない傘だ。

彼と別れてから、何度も捨てようと思った。この傘を見るたびに、楽しかった日々や、喧嘩した日の苦い記憶が蘇ってくるからだ。新しい恋人ができた時も、引越しの時も、絶好の機会はあった。しかし、いざゴミ袋を手にすると、なぜかいつも、その手が止まってしまうのだった。それは、惰性だろうか。あるいは、未練だろうか。自分でもよく分からなかった。

その日は、朝から土砂降りの雨だった。出かけようとした私は、自分の傘が壊れていることに気づく。仕方なく、私はそのビニール傘を手に取った。五年ぶりに開いた傘は、少し錆びた匂いがした。雨の中を歩いていると、ふと、健太がこの傘をさして、私を駅まで迎えに来てくれた日のことを思い出した。あの時、小さな傘の中で肩を寄せ合った私たちは、世界の誰よりも幸福だった気がする。

そんな感傷に浸っていた時、強い風が吹き、バサッという音と共に、傘の骨が一本、あっけなく折れてしまった。その瞬間、私は、なぜだか、ほっとしたような気持ちになった。もう、この傘を捨てることに、何の躊躇もない。私は、近くのゴミ箱に、壊れた傘をそっと置いた。過去との、あまりにも長いお別れだった。


【設問1】傍線部①「いざゴミ袋を手にすると、なぜかいつも、その手が止まってしまう」とあるが、この時の「私」の心情の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 健太への憎しみがまだ残っており、彼の私物を捨てることで、彼との関係を完全に断ち切ってしまうのが怖かったから。
  2. 健太との復縁を心のどこかで期待しており、彼との唯一の繋がりである傘を手放すことができなかったから。
  3. 傘を捨てるという行為が、健太と過ごした時間そのものを否定し、消し去ってしまうように感じられたから。
  4. 健太がいつか傘を取りに来るかもしれないと思い、その日のために、彼の私物を大切に保管しておかなければならないと考えていたから。
【正解と解説】

正解 → 3

  • 1. 「憎しみ」という強い感情は本文から読み取れません。「楽しかった日々」も思い出しており、感情はもっと複雑です。
  • 2. 「復縁を期待して」いるとまでは断定できません。「未練だろうか」と自問はしていますが、それは過去への執着全般を指しており、具体的な復縁願望とは異なります。
  • 3. ただのビニール傘が捨てられないのは、それが単なる「モノ」ではなく、健太との「過去」の象徴になっているからです。傘を捨てることは、その楽しかった時間も苦かった時間も、全てを自分の手で「消し去ってしまう」行為のように感じられ、それがためらい(手が止まる)の原因となっている、という解釈が最も深層心理を捉えています。
  • 4. 五年も経っており、ありふれたビニール傘を「いつか取りに来る」と本気で考えているとは考えにくいです。

【設問2】傍線部②「私は、なぜだか、ほっとしたような気持ちになった」とあるが、それはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 傘が壊れたことで、新しい傘を買うための正当な理由ができたことを喜んでいるから。
  2. 自分の意志ではなく、不可抗力によって傘が壊れたことで、過去との決別へのきっかけが与えられたと感じたから。
  3. 健太との思い出の品がなくなったことで、彼への未練が完全に消え去り、心が解放されたから。
  4. 傘が壊れるという不吉な出来事が、健太との関係が完全に終わったことを象徴していると解釈したから。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「新しい傘を買う」ことが本題ではありません。問題は傘を「捨てる」ことです。
  • 2. 「私」は、自分の意志では傘を捨てられませんでした。それは過去(健太との思い出)を自ら断ち切ることへのためらいがあったからです。しかし、傘が「強い風」という外的要因(不可抗力)によって物理的に壊れたことで、傘はただの「壊れたモノ」になりました。これにより、「私」は思い出を傷つける罪悪感なしに、過去の象徴であった傘を処分できる「口実」を得たのです。その、自分で決断しなくて済んだことへの安堵感が、「ほっとした」気持ちの正体です。
  • 3. 未練が「完全に消え去った」かどうかは分かりません。ただ、過去を整理するきっかけを得たのです。
  • 4. 「不吉な出来事」という解釈は、「ほっとした」というポジティブな安堵の感情とは結びつきにくいです。

【設問3】本文における「ビニール傘」の役割の説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。

  1. 「私」が健太との過去の思い出に縛られている状態を象徴する、具体的なアイテム。
  2. 物語の結末で、「私」と健太が再会するきっかけとなる、重要なキーアイテム。
  3. 大量生産・大量消費社会の虚しさを批判するための、社会的なメタファー。
  4. 持ち主のいなくなったモノの悲哀を描くことで、無常観を表現するための小道具。
【正解と解説】

正解 → 1

  • 1. ありふれたビニール傘が、健太との過去と分かちがたく結びつき、「私」がそれを捨てられないでいる、という事実そのものが、彼女の心理状態(過去への執着)を象徴しています。物語の最後まで、傘の存在と「私」の心境は連動しており、この説明が最も的確です。
  • 2. 健太と「再会するきっかけ」にはなっていません。むしろ、別れを完結させるためのアイテムです。
  • 3. 物語の主題はあくまで「私」個人の内面的な葛藤であり、社会批判という大きなテーマにまでは展開していません。
  • 4. 「モノの悲哀」ではなく、モノに投影された「人間の心」が主題です。

【設問4】本文の内容と合致するものを、次の中から一つ選べ。

  1. 「私」は、健太との思い出をすべて忘れて、新しい人生を歩んでいる。
  2. 「私」が持っていた傘は、健太から贈られた、高級なブランド品だった。
  3. 「私」は、自分の意志で、まだ使える状態の傘をゴミ箱に捨てた。
  4. 「私」は、壊れたビニール傘を捨てることで、一つの区切りをつけた。
【正解と解説】

正解 → 4

  • 1. 傘を使うことで鮮明に思い出しており、「すべて忘れて」はいません。間違いです。
  • 2. 「ありふれた、コンビニで誰もが買うような、何の変哲もない傘だ」とあり、間違いです。
  • 3. 傘は「骨が一本、あっけなく折れてしまった」後、つまり「壊れた」状態で捨てています。間違いです。
  • 4. 壊れた傘を「そっと置いた」後、「過去との、あまりにも長いお別れだった」と締めくくられていることから、この行為が彼女にとって過去を整理し、一つの「区切り」をつけるためのものであったことがわかります。これが内容と合致します。

語句説明:
何の変哲(へんてつ)もない:何も変わったところがない。ごく普通である。
惰性(だせい):これまでの習慣や勢い。特に、改めようとせず、旧来のやり方を続けること。
躊躇(ちゅうちょ):あれこれ迷って、決心がつかないこと。ためらい。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:20