現代文対策問題 16
本文
大学の卒業式から一週間後、私は一人、アパートの部屋で荷造りをしていた。がらんとした部屋の壁に立てかけた一枚のポスターが、やけに色鮮やかに見える。それは、在学中に仲間たちと立ち上げた演劇サークルの、最後の公演のポスターだった。照明を浴びて、ぎこちなく笑う私の顔がそこにある。
四年間、私はこの六畳一間の部屋で、数えきれないほどの夜を明かした。仲間とぶつかり、台詞を覚え、泣いて、笑った。あの頃は、本気で役者になれると信じていた。だが、現実は甘くない。卒業を前に、私は小さな出版社への就職を決めた。夢を諦めた、と言えば、そうなのかもしれない。仲間たちの多くが、まだ夢を追い続けている中で、私だけが先に船を降りるような、後ろめたさがあった。
ポスターを壁から剥がすと、その裏だけが、日焼けせずに白いままだった。まるで、私の大学生活そのものが、ぽっかりと切り取られてしまったかのようだ。私はそれを丸めて捨てることも、大事に持ち運ぶこともできず、ただその場に立ち尽くしていた。
その時、不意に携帯が鳴った。サークルの後輩からだった。「先輩、今からみんなでそっち行ってもいいですか」。電話の向こうが、やけに騒がしい。返事をする間もなく、玄関のチャイムがけたたましく鳴った。ドアを開けると、後輩や同級生たちが、寄せ書きのされた色紙や、安物の酒を手に、にやにやしながら立っていた。「船出だろ、祝ってやるよ」と、最後まで役者の道を諦めるなと言ってくれていた親友が、私の肩を叩いた。その瞬間、涙が、堪えきれず溢れ出した。
【設問1】傍線部①「私だけが先に船を降りるような、後ろめたさがあった」とあるが、この時の「私」の心情の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 仲間たちを裏切って、より条件の良い就職先を選んだことに対する罪悪感。
- 夢を追い続ける仲間たちに対して、自分だけが安定した道へ逃げるように感じられることへの申し訳なさ。
- 演劇への情熱が完全に冷めてしまい、仲間たちとの温度差についていけないという焦り。
- 就職を決めた自分の判断が本当に正しかったのか、自信が持てずにいることへの不安。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「裏切って」や「より条件の良い就職先」といった、他者との比較や悪意は読み取れません。あくまで自分自身の内面の問題です。
- 2. 「船」を「夢を追いかける仲間たちの集団」と捉えると、「先に降りる」ことは、その仲間たちと同じ道を歩むのをやめることを意味します。夢を追い続ける仲間たちの中で、自分だけが就職という現実的な道を選ぶことへの「後ろめたさ」や「申し訳なさ」を的確に説明しています。
- 3. 「情熱が完全に冷めてしまい」とまでは言い切れません。ポスターを前に立ち尽くす姿からは、未練が感じられます。
- 4. 「不安」も含まれるかもしれませんが、「後ろめたさ」という言葉は、他者(仲間たち)との関係性の中で生まれる感情です。自分の選択に対する不安だけでなく、仲間に対する負い目が中心となっています。
【設問2】傍線部②親友が言った「船出だろ、祝ってやるよ」という言葉の真意として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 「私」が夢を諦めたことを揶揄し、当てつけがましく送別の会を開こうとしている。
- 「私」が別の道へ進むことを、演劇という船からの「離脱」ではなく、新たな人生への「出発」として捉え、応援しようとしている。
- 「私」がいなくなったサークルを、自分たちの力で盛り上げていくという、残された者としての決意を表明している。
- 「私」が就職を祝ってくれることを期待しているのを見透かし、仕方なく祝いの言葉をかけている。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「にやにやしながら」という描写はありますが、その後の「祝ってやるよ」という言葉や、仲間たちの行動全体からは、悪意や「揶揄」は感じられません。親しい間柄の照れ隠しと見るのが自然です。
- 2. 「私」が自分の状況を「先に船を降りる」というネガティブなイメージで捉えていたのに対し、親友はそれを「船出」というポジティブな言葉に言い換えています。これは、「私」の新しい人生の始まりを、仲間として祝福し、送り出してやろうという温かい気持ちの表れです。「離脱」ではなく「出発」と捉える視点の転換が、この言葉の核心です。
- 3. この言葉は、あくまで「私」に対してかけられたものであり、「残された者としての決意表明」が主眼ではありません。
- 4. 「仕方なく」という消極的な態度ではなく、大勢で押しかけてくるという積極的な行動からは、心からの友情が感じられます。
【設問3】ポスターの裏の「日焼けせずに白いままだった」部分が象徴しているものとして、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 「私」が演劇に打ち込んだ、外部の世界から隔絶された、純粋で特別な時間。
- 演劇に夢中になるあまり、学業など、他の学生生活を疎かにしてきたという事実。
- 表舞台の華やかさの裏にある、誰にも知られることのない地道な努力の痕跡。
- これから「私」が歩む、まだ何も書かれていない、真っさらな未来の可能性。
【正解と解説】
正解 → 1
- 1. ポスターは「私」の大学生活の象徴です。壁が周囲の時間の経過(日焼け)を表しているのに対し、ポスターに隠された部分だけが「白いまま」残っている。これは、演劇という一つのことに没頭していた四年間という時間が、社会の時間の流れとは違う、特別な時間であったことを象徴していると解釈できます。「ぽっかりと切り取られてしまったかのよう」という表現も、この解釈を補強します。
- 2. 「学業を疎かにした」かどうかは本文からは分かりません。少し拡大解釈しすぎています。
- 3. 「裏方としての努力」というよりは、大学生活という時間そのものの象徴として捉える方が自然です。
- 4. これはポスターを剥がした「跡」の話であり、未来の象徴ではありません。むしろ、過去の時間の痕跡です。
【設問4】本文の最後に「私」が涙を流した理由の説明として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 自分の選択を誰にも理解されないまま、一人で寂しく故郷へ帰らなければならないことへの悲しみ。
- 夢を諦めた自分を仲間たちがなじりに来たと誤解し、悔しさと情けなさから涙がこみ上げてきた。
- 仲間たちとの楽しかった日々がもう戻らないことを実感し、堪えきれないほどの寂しさに襲われた。
- 自分の決断を「裏切り」ではなく「新たな出発」として仲間たちが受け入れてくれたことへの、安堵と感謝の気持ち。
【正解と解説】
正解 → 4
- 1. 仲間たちが大勢で押しかけてきており、「一人で寂しく」という状況ではありません。
- 2. 親友の「船出だろ、祝ってやるよ」という言葉は、明らかに祝福の意図であり、「なじりに来た」という解釈は不自然です。
- 3. 「寂しさ」もゼロではないかもしれませんが、涙の直接的なきっかけは仲間たちの温かい言葉と行動です。
- 4. 「後ろめたさ」を感じていた「私」にとって、仲間たちが自分の選択を否定せず、むしろ「船出」として祝福してくれたことは、最大の救いです。その優しさに対する「安堵」と、理解してくれたことへの「感謝」が一体となり、感極まって涙が溢れ出したと解釈するのが、物語の流れとして最も自然です。
語句説明:
がらんとした:広く何もないさま。人の気配がなく寂しいさま。
後ろめたい(うしろめたい):やましいことがあるために、気がとがめる。きまりが悪い。
けたたましく:人を驚かすような、甲高く鋭い音のさま。