現代文対策問題 11
本文
駅のホームで電車を待っていると、隣に立った若い母親が、ぐずる幼い息子に「もう、いい子にしてないと、鬼が来るからね」と言い聞かせているのが聞こえた。男の子はぴたりと泣き止み、母親の服の裾を強く握りしめる。ありふれた光景。だが、私の胸には、とうに忘れたはずの記憶がちくりと蘇った。
幼かった頃、私にとって世界で一番怖かったのは、押入れの中にいると信じていた「鬼」だった。悪さをすると母が「鬼が連れて行っちゃうよ」と言うたびに、私は慌てて謝った。その言葉は絶対的な効力を持っていた。私は、母の言うことをよく聞く「良い子」でいようと必死だった。そうすれば、恐ろしい鬼から、そして何より、母のあの冷たい視線から逃れられると思っていたからだ。
しかし、いつだったか、母が電話の向こうの誰かと笑いながら、「うちの子は、まだ鬼を信じてるのよ」と話しているのを聞いてしまったのだ。私の恐怖が、母にとっては笑いの種でしかなかったという事実。その瞬間、押入れの暗闇よりも、母の明るい笑い声の方が、ずっと恐ろしいものに感じられた。世界が、ぐらりと揺らぐような感覚。鬼は、その日を境に私の前から姿を消した。代わりに、私は母の顔色をうかがうようになった。
【設問1】傍線部①「私の恐怖が、母にとっては笑いの種でしかなかった」とあるが、この事実に気づいた時の「私」の心情の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 母が自分を騙していたことへの怒りと、信じていた世界が崩れるような衝撃を受けている。
- 自分がまだ子供だと思われていたことへの安堵と、早く大人になりたいという憧れを抱いている。
- 母が電話の相手に自分のことを自慢してくれたのだと解釈し、誇らしい気持ちになっている。
- 母のしつけがすべて嘘だったと知り、これからは何をしても叱られないのだという解放感を味わっている。
【正解と解説】
正解 → 1
- 1. 「鬼」の存在を固く信じ、恐怖を感じていた「私」にとって、その恐怖が母にとっては単なる「笑いの種」だったという事実は、信頼していた母からの裏切りのように感じられます。それによって信じていた世界の秩序が崩れる「世界が、ぐらりと揺らぐような感覚」を的確に説明しています。
- 2. 「安堵」や「憧れ」というポジティブな感情は、この場面の衝撃とは正反対です。
- 3. 電話の内容は明らかに「私」の幼さを笑うものであり、「自慢」と解釈するのは不自然です。「誇らしい」気持ちにはなりえません。
- 4. 「解放感」ではなく、「押入れの暗闇よりも、母の明るい笑い声の方が、ずっと恐ろしいものに感じられた」とあるように、新たな恐怖を感じています。
【設問2】傍線部②「私は母の顔色をうかがうようになった」とあるが、このような行動の変化が起きたのはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 鬼という絶対的な基準を失い、それに代わる善悪の判断基準を、母の表情の中に求めるようになったから。
- 母を笑わせることが好きになり、どうすれば母が喜ぶかを、その表情から読み取ろうと努力するようになったから。
- 母への不信感から、次は何を企んでいるのか、その本心を探るために母の言動を注意深く観察するようになったから。
- 母に嘘をつかれたことがトラウマとなり、母と目を合わせることができなくなってしまったから。
【正解と解説】
正解 → 1
- 1. これまで「私」にとっての善悪の基準は「鬼に連れて行かれるかどうか」でした。しかし、その基準が嘘だと分かった今、何が良くて何が悪いのかを判断する新たな基準が必要になります。その基準を、絶対的な存在である母の「顔色」、つまり機嫌や感情に求めるようになった、という解釈が最も論理的です。母の「冷たい視線」を恐れていたこととも繋がります。
- 2. 母を「笑わせる」のが好きになったのではなく、母の「笑い声」を恐ろしいと感じた後なので、文脈に合いません。
- 3. 「企んでいる」というほどの悪意や、「本心を探る」という積極的な対決姿勢は、子供の行動としてはやや大げさです。「顔色をうかがう」は、より受動的で防衛的な態度を示します。
- 4. 「目を合わせることができなくなった」のではなく、むしろ判断基準として「顔色をうかがう」ようになったのですから、行動としては逆です。
【設問3】本文の内容に照らして、「私」が「良い子」でいようとした理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 褒めてもらうことで、母親からの愛情を独り占めしたいという強い欲求があったから。
- 恐ろしい鬼の存在と、母親の不機嫌な視線の両方から逃れたいという恐怖心があったから。
- しつけに厳しい母親の期待に応えることが、自分の将来のためになると信じていたから。
- 良い行いをすることで、押入れの中の鬼を退治できるという迷信を信じていたから。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「愛情を独り占めしたい」という積極的な欲求よりは、恐怖から逃れたいという消極的な動機が強く描かれています。
- 2. 「そうすれば、恐ろしい鬼から、そして何より、母のあの冷たい視線から逃れられると思っていたから」という本文の記述に直接的に合致します。二つの恐怖が理由であることを明確に示しています。
- 3. 「自分の将来のため」といった、長期的な視点での行動であったという記述はありません。あくまで、その場の恐怖を回避するための行動です。
- 4. 「鬼を退治できる」という考えはなく、鬼から「連れて行かれない」ようにするための行動です。
【設問4】本文の構成とテーマに関する説明として、最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 母親の教育方針の是非を問いながら、理想的な親子関係のあり方を読者に提案している。
- 駅のホームでの出来事をきっかけに、幼少期の体験を回想し、それが人格形成に与えた影響を描いている。
- 信じていたものに裏切られた体験をユーモラスに描き、子供時代の勘違いを笑い話として昇華させている。
- 大人になった主人公が、過去の母親の行動をすべて理解し、許すまでの心の軌跡を感動的に描いている。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 本文はあくまで「私」個人の体験と心境の変化を描くものであり、一般的な「教育方針の是非」や「理想的な親子関係の提案」にまで言及していません。
- 2. 「駅のホームで」の光景が導入部(きっかけ)となり、過去の「幼かった頃」の記憶が回想されます。そして、その体験の結果として「母の顔色をうかがうようになった」という、後の人格に影響を与える変化が起きたことを示しており、全体の構成を的確に説明しています。
- 3. この体験は「ちくりと」痛む記憶として描かれており、「ユーモラス」な「笑い話」として昇華されてはいません。
- 4. 過去を回想してはいますが、その記憶を「許す」などの心情の解決には至っておらず、ただ「蘇った」とされています。
語句説明:
ありふれた:どこにでもあって、珍しくないこと。
効力(こうりょく):ききめ。効果。
顔色をうかがう(かおいろをうかがう):相手の機嫌や考えを知ろうとして、表情や様子をうかがうこと。