古文対策問題 001(徒然草 第五十二段)
【本文】
仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心憂く覚えて、ある時思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」と言ひける。
すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり。
【現代語訳】
仁和寺にいるある法師が、年をとるまで(有名な)石清水八幡宮を参拝したことがなかったので、情けなく思って、ある時決心して、たった一人で、歩いて参詣した。麓にある極楽寺や高良神社などを拝んで、「(参拝は)これくらいのものだろう」と判断して帰ってしまった。
さて、仲間の僧侶に会って、「長年やりたいと思っていたことを、成し遂げました。聞いていた以上に、尊いところでいらっしゃいました。それにしても、参拝した人々が皆、山へ登って行ったのは、何か特別なことがあったのでしょうか。興味深かったのですが、神様にお参りすることこそが本来の目的なのだと思って、山までは見ませんでした。」と言った。
(この話からわかるように)どんな些細なことにおいても、指導者(案内人)はあってほしいものである。
【覚えておきたい知識】
作品:『徒然草』は鎌倉時代末期に吉田兼好によって書かれた随筆。仏教的な無常観を背景に、鋭い人間観察や教訓を記す。
重要古語:
- 心憂し(こころうし):情けない、つらい。
- かばかり:これくらい、この程度。
- かたへ(片方):仲間、同輩。
- 本意(ほい):本来の目的、かねてからの願い。
- ゆかし:見たい、聞きたい、知りたい。心が引かれるさま。
- 先達(せんだつ):指導者、案内人。
- あらまほし:あってほしい、理想的だ。
【設問】
【問1】法師が「かばかりと心得て帰りにけり」と判断したのはなぜか。その根底にある法師の考え方として最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 長旅で疲労困憊しており、一刻も早く寺に帰りたかったから。
- 麓の寺社の立派さに満足し、これが目的のすべてだと早合点したから。
- 山頂への道が非常に険しく、年老いた自分の足では危険だと判断したから。
- 他の参拝客が山へ登るのを見て、彼らとは違う行動をとりたいという天邪鬼な気持ちがあったから。
- 神仏への信仰よりも、道中の風情を楽しむこと自体が目的だったから。
【問1 正解と解説】
正解:2
法師は麓にある極楽寺・高良などを参拝しただけで、「これくらいのものだろう」と自己完結しています。本来参拝すべき石清水八幡宮の本社が山上にあることを知らず、麓の寺社だけで全体像を判断してしまった「早合点」が失敗の原因です。彼のセリフ「神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」からも、自分は本質を突いているという思い込みが読み取れます。
【問2】この逸話を通じて、作者・兼好が読者に伝えたい教訓は何か。最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 何事も、最後までやり遂げなければ意味がない。
- 知ったかぶりや思い込みは、物事の本質を見誤る原因となる。
- 集団で行動するよりも、単独で行動する方が得るものが多い。
- 年をとってからの挑戦は、周到な準備がなければ失敗する。
- 目的を達成するためには、寄り道せずに本筋に集中すべきである。
【問2 正解と解説】
正解:2
この話の結論は、最終文「すこしのことにも、先達はあらまほしきことなり」に集約されています。これは、専門家や経験者の助言を求めることの重要性を説いたものです。裏を返せば、法師のように自分の知識や判断を過信し、「知ったかぶり」をすることが、いかに物事の本質から遠ざかってしまうか、という教訓を読者に示しています。