漢文対策問題 009(『史記』より 垓下の歌)
本文
項王軍壁垓下。兵少食尽。漢軍及諸侯兵、囲之数重。夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」項王則夜起、飲帳中。有美人、名虞。常幸従。有駿馬、名騅。常騎之。於是項王乃悲歌慷慨、自為詩曰、「力抜山兮気蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何。虞兮虞兮奈若何。」歌数闋、美人和之。項王泣数行下。
【書き下し文】
項王(こうおう)の軍、垓下(がいか)に壁(へき)す。兵少なく食尽く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重(すうちょう)なり。夜、漢軍の四面(しめん)皆(みな)楚歌(そか)するを聞き、項王乃(すなは)ち大いに驚きて曰く、「漢は皆已(すで)に楚を得たるか。是(こ)れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王則(すなは)ち夜起(よるお)きて、帳中(ちょうちゅう)に飲す。美人有り、名は虞(ぐ)。常に幸(こう)せられて従ふ。駿馬(しゅんめ)有り、名は騅(すい)。常に之に騎(の)る。是(ここ)に於(お)いて項王乃ち悲歌慷慨(ひかかうがい)し、自ら詩を為(つく)りて曰く、「力は山を抜き気は世を蓋(おほ)ふ。時に利あらず騅(すい)は逝(ゆ)かず。騅の逝かざるは奈何(いかん)すべき。虞や虞や若(なんぢ)を奈何(いかん)せん。」と。歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和す。項王、泣(なみだ)数行(すうこう)下る。
【現代語訳】
【問題】
項王が詠んだ詩「力抜山兮気蓋世...」から読み取れる彼の心情として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- かつての圧倒的な自分の力を誇示しつつも、時勢に見放され、愛馬も愛人も守り切れない絶望的な状況を嘆く、悲壮な気持ち。
- 自らの力をもってすれば、この程度の窮地は乗り越えられるという、未来への希望と自己への鼓舞。
- 自分に従ってくれた虞や騅に対し、もっと良い扱いをしてやれなかったことへの深い後悔と謝罪の念。
- 四面楚歌の状況を作り出した漢軍への激しい怒りと、必ず復讐を遂げんとする不屈の闘志。
- 全てを失う運命を受け入れ、愛する者たちに穏やかな別れを告げようとする、諦観の境地。
- 自分の力が衰え、もはや山を抜くほどの力も世を覆う気力も失ってしまったことへの自己嫌悪。
- なぜ自分の故郷である楚の人間が敵である漢軍に加わっているのかという、裏切りに対する強い不信感と悲しみ。
- これから始まる最後の戦いに向けて、愛馬と愛する女に、自分と共に死ぬ覚悟を問うている決意の表れ。
- 自分の栄光の時代を懐かしみ、過去の思い出に浸ることで、目の前の厳しい現実から逃避しようとする気持ち。
- 自分の力も、時も、愛馬も、愛人も、全てが自分の思い通りにならないことへの、やり場のない苛立ちと憤り。
【正解と解説】
正解:1
- 選択肢1:◎ 詩の前半「力抜山兮気蓋世」で過去の栄光と絶対的な自信を示し、後半「時不利兮...」で時勢に見放された現在の絶望を嘆く。この「壮大なる過去」と「悲壮なる現在」の対比こそが詩の核心であり、項王の心情を最も的確に表している。
- 選択肢2:× 「時不利」「騅不逝」とあるように、もはや乗り越えられないことを悟っており、希望は見出していない。
- 選択肢3:× 扱いへの後悔ではなく、「どうしてやることもできない」という現在の無力さを嘆いている。
- 選択肢4:× 詩の内容は怒りや復讐ではなく、内面的な嘆きと諦めが主である。
- 選択肢5:× 穏やかな別れではなく、「奈何(どうしたらよいか)」という強い葛藤と悲嘆が表れている。
- 選択肢6:× 自分の力が衰えたとは言っていない。力は今なお山を抜くほどだと信じているが、「時」が味方しないと嘆いている。
- 選択肢7:× それは詩を詠む前の心情(是何楚人之多也)であり、詩自体の主題ではない。
- 選択肢8:× 覚悟を問うというよりは、「どうしてやれようか、いや、どうすることもできない」という絶望的な問いかけである。
- 選択肢9:× 現実逃避ではなく、むしろ絶望的な現実と正面から向き合った上での嘆きである。
- 選択肢10:× 苛立ちや憤りも含まれるが、それらを包括した「悲壮感」と表現する1が最も全体を捉えている。
【覚えておきたい知識】
重要句法:詠嘆「兮(けい)」、疑問・反語「奈何(いかん)」
- 詠嘆「兮(けい)」:主に詩経や楚辞で使われる語気助詞。句の末尾に置き、リズムを整えたり、感動・詠嘆の気持ちを強調したりする働きがある。訓読では読まないことが多い。この詩が古代の歌謡形式であることを示している。
- 疑問・反語「奈何(いかん)」:「どうしたらよいか」「どうしようか」という疑問・反語を表す。本文では「奈何すべき」「若を奈何せん」と、なすすべのない絶望的な状況での問いかけとして使われている。
重要単語
- 壁(へき)す:城壁や砦を築いて立てこもること。
- 楚歌(そか):楚の国の歌。項王軍の兵士の故郷の歌。
- 幸(こう)す:君主などから特別に寵愛を受けること。
- 慷慨(こうがい):運命や社会の不正などを憤り嘆くこと。
- 騅(すい):項王の愛馬の名。毛の色が青黒い馬。
- 闋(けつ):楽曲や詩歌を数える助数詞。「一闋」で音楽の一区切り。
背景知識・故事成語:「四面楚歌(しめんそか)」
出典は、前漢の歴史家・司馬遷が著した歴史書『史記』の「項羽本紀」。楚の覇王・項羽が、漢の劉邦との最後の戦い(垓下の戦い)で、漢軍に幾重にも包囲された際、夜中に四方の漢の陣営から故郷である楚の歌が聞こえてきた。これを聞いた項羽は、「漢はすでに楚を完全に占領してしまったのか。なんと楚の人間の多いことか」と嘆き、大勢の兵が漢軍に降伏したことを悟り、自らの敗北を覚悟した。この故事から、「四面楚歌」は、周囲をすべて敵に囲まれ、味方が一人もいなくなり、孤立無援であることのたとえとして使われる。