漢文対策問題 047(故事成語『朝三暮四』)
本文
宋有狙公者、愛狙、養之成群。能解狙之意、狙亦得公之心。損其家口、充狙之欲。俄而匱、将限其食。恐衆狙之不馴於己也、先誑之曰、「与若芧、朝三而暮四、足乎。」衆狙皆起而怒。俄而曰、「与若芧、朝四而暮三、足乎。」衆狙皆伏而喜。
【書き下し文】
宋(そう)に狙公(そこう)なる者有り、狙を愛し、之を養ひて群れを成す。能(よ)く狙の意を解し、狙も亦(ま)た公の心を得たり。其の家口(かこう)を損(そん)じて、狙の欲を充(み)たす。俄(にはか)にして匱(とぼ)しく、将(まさ)に其の食を限らんとす。衆狙(しゅうそ)の己(おのれ)に馴(な)れざらんことを恐れ、先づ之を誑(あざむ)きて曰く、「若(なんぢ)に芧(ち)を与ふるに、朝に三にして暮に四にせん、足るか。」と。衆狙皆起(た)ちて怒る。俄にして曰く、「若に芧を与ふるに、朝に四にして暮に三にせん、足るか。」と。衆狙皆伏して喜ぶ。
【現代語訳】
【設問】
問1 猿たちが、狙公の最初の提案「朝三暮四」には怒り、二度目の提案「朝四暮三」には喜んだのはなぜか。最も適当なものを選べ。
- 一日の合計が七つであることには気づかず、目先の朝にもらえる数が増えたことだけを見て、得をしたと勘違いしたから。
- 猿たちは夜行性なので、朝よりも活動が活発になる暮れに多くの餌をもらえる方が嬉しかったから。
- 狙公が一度自分たちの怒りを聞き入れて、提案を考え直してくれた、その誠意が嬉しかったから。
- 「三」という数字は猿にとって不吉な数であり、「四」という数字は幸運な数だと信じられていたから。
- 猿たちは数も数えられず、ただ狙公が二度目に優しく語りかけたので、喜んで従ったから。
問2 この物語が風刺している人間の愚かさとはどのようなことか。筆者(荘子)の思想に即して最も適当なものを選べ。
- 目先のわずかな違いに心を奪われ、物事の本質(合計は同じ)が変わっていないことに気づかないこと。
- 動物をだますような、ずる賢いやり方で物事を解決しようとすること。
- 言葉巧みな者に簡単に言いくるめられてしまい、騙されていることに気づかないこと。
- 自分の要求を通すために、怒りをあらわにして相手を威嚇しようとすること。
- 食欲のような、目先の欲望を満たすことばかり考えてしまうこと。
【正解と解説】
問1:正解 1
- 選択肢1:◎ 猿たちは、一日に合計七つのトチの実が与えられるという本質的な部分を理解せず、ただ朝にもらえる数が三つから四つに「増えた」という、表面的な見かけの変化にのみ反応して喜んでいる。この浅はかさがポイントである。
- 選択-肢2:夜行性であるという記述はない。
- 選択肢3:誠意を感じたというよりは、単純に得をしたと勘違いしている。
- 選択肢4:数字の吉凶に関する信仰は本文にない。
- 選択肢5:「皆起ちて怒る」とあるように、最初の提案は理解して怒っており、全く数が数えられないわけではない。
問2:正解 1
- 選択肢1:◎ 荘子はこの猿の姿を、人間世界の愚かさに重ね合わせている。人々は、言葉や名目といった表面的な違い(朝三か朝四か)に一喜一憂し、是非を論じ合うが、その本質的な部分(合計は七)は何も変わっていないことに気づかない。こうした、物事の本質を見失った不毛な議論やこだわりを風刺している。
- 選択肢2:狙公のずる賢さも描かれているが、物語の主眼は、それに騙される猿(=人間)の愚かさにある。
- 選択肢3:騙される愚かさを指摘しているが、その愚かさの「本質」が何か(=目先の違いに囚われる)まで踏み込んでいる1の方がより的確。
- 選択肢4:猿の怒りは、物語の展開上の一要素であり、それが風刺の主題ではない。
- 選択肢5:欲望そのものというより、欲望を満たす上での判断の浅はかさを問題にしている。
【覚えておきたい知識】
重要句法:「AにしてBにせん」
- 意味:「AをBという配分・割合にする」。
- 本文の例:「朝に三にして暮に四にせん」→ 朝の分を三つ、暮れの分を四つにしよう。
- 分配や割り当てを示す際に使われる表現。
重要単語
- 狙公(そこう):猿回し。猿を飼いならす人。
- 狙(そ):猿。
- 家口(かこう):家族の食費。家計。
- 充(み)たす:満たす。満足させる。
- 俄(にはか)にして:まもなく。やがて。
- 匱(とぼ)し:乏しい。不足する。
- 誑(あざむ)く:だます。いつわる。
- 若(なんぢ):おまえ。二人称。
- 芧(ちょ/とち):とちの実。猿の餌。
- 伏(ふ)す:ひれ伏す。かしこまる。
背景知識・故事成語:「朝三暮四(ちょうさんぼし)」
出典は『列子』黄帝篇および『荘子』斉物論篇。この物語が語源である。現代では主に二つの意味で使われる。①目先の違いに気を取られて、結果が同じであることに気づかない愚かさのたとえ。②言葉巧みに人をだますこと。本来の荘子の文脈では、①の意味が中心であり、是非や善悪といった区別も、所詮はこの「朝三暮四」のようなもので、絶対的なものではなく、人の知恵が生み出した相対的なものに過ぎない、という「万物斉同」の思想を説くための寓話となっている。