漢文対策問題 046(『荘子』より 鵬の飛翔)
本文
北冥有魚、其名為鯤。鯤之大、不知其幾千里也。化而為鳥、其名為鵬。鵬之背、不知其幾千里也。怒而飛、其翼若垂天之雲。…蜩与学鳩笑之曰、「我決起而飛、搶楡枋、時則不至、而控於地而已矣。奚以之九万里而南為。」
【書き下し文】
北冥(ほくめい)に魚有り、其の名を鯤(こん)と為(な)す。鯤の大きさ、其の幾千里(いくせんり)なるかを知らず。化して鳥と為る、其の名を鵬(ほう)と為す。鵬の背(せ)、其の幾千里なるかを知らず。怒(ど)して飛べば、其の翼は天に垂(た)るる雲の若(ごと)し。…蜩(てう)と学鳩(がくきう)と之を笑ひて曰く、「我、決起(けっき)して飛ぶも、楡(ゆ)・枋(ほう)に搶(いた)り、時として則(すなは)ち至らざれば、地に控(ひか)へらるるのみ。奚(なん)ぞ九万里に之(ゆ)きて南せんことを為(な)さんや。」と。
【現代語訳】
【設問】
問1 「蜩と学鳩」が、巨大な鳥「鵬」の長大な飛翔を笑ったのはなぜか。最も適当なものを選べ。
- 鵬が、自分たちの縄張りである森の木々に危害を加える迷惑な存在だったから。
- 自分たちの小さな世界の価値観でしか物事を判断できず、鵬の壮大な行動の意味や目的を全く理解できなかったから。
- 鵬の飛ぶ姿が、体の大きさに似合わず不格好で、見ていて滑稽に思えたから。
- 鵬が自分たちを見下していると思い込み、その傲慢な態度に腹を立てたから。
- 九万里も飛んで南へ行くなんて、骨折り損のくたびれもうけだと、現実的な観点から呆れたから。
問2 この物語全体を通して、筆者(荘子)が伝えようとしている根本的な思想は何か。最も適当なものを選べ。
- 大きな者も小さな者も、それぞれの役割を果たしており、自然界の中では等しく尊いということ。
- 大きな目標を持つ鵬の生き方よりも、身の丈に合った幸せを求めるセミや鳩の生き方の方が賢明であるということ。
- 物事の価値や大小は、見る者の視点やスケールによって全く異なるものであり、小さな見識で広大な世界を判断することの愚かさ。
- 人間も鵬のように、現状に満足せず、常に高みを目指して努力し続けるべきだということ。
- 大きな者は、小さな者の生き方を理解し、尊重する度量を持つべきだということ。
【正解と解説】
問1:正解 2
- 選択肢1:縄張りを荒らされたという記述はない。
- 選択肢2:◎ セミや鳩の行動範囲はせいぜい木から木まで。彼らの常識(=小さな知)では、鵬の九万里の飛翔(=大きな知)は、理解不能で無意味なことにしか思えない。自分たちの物差しで、自分たちとは全くスケールの違う存在を測り、それを笑っているのである。
- 選択肢3:不格好だから笑ったという記述はない。
- 選択肢4:鵬が彼らを見下したという記述はない。
- 選択肢5:「骨折り損」と判断すること自体が、彼らの小さな価値観に基づいている。
問2:正解 3
- 選択肢1:等しく尊いというよりは、両者の認識のスケールの違いと、それによって生じる断絶を問題にしている。
- 選択肢2:セミや鳩の生き方を賢明だとは捉えておらず、むしろその視野の狭さを批判的に描いている。
- 選択肢3:◎ この物語の核心。セミや鳩にとっての世界と、鵬にとっての世界は、全くスケールが異なる。荘子は、小さな見識(小知)で大きな見識(大知)を笑うことの愚かさを指摘し、我々が囚われている常識的な価値観や判断が、いかに相対的で偏狭なものであるかを問いかけている。
- 選択肢4:鵬の生き方を無条件に推奨しているわけではない。むしろ、そうした大小の区別そのものを超越することを目指している。
- 選択肢5:大きな者が小さな者を理解すべき、という方向の話ではない。
【覚えておきたい知識】
重要句法:反語形「奚(なん)ゾ~ンことを為(な)さんや」
- 意味:「どうして~などということをするのか、いや、する必要はない」。相手の行動の目的や意味が理解できず、それを非難したり、無意味だと考えたりする気持ちを表す反語表現。
- 本文の例:「奚ぞ九万里に之きて南せんことを為さんや」→ どうして九万里も飛んで南へ行くなんてことをするのか(理解できないし、無駄なことだ)。
重要単語
- 北冥(ほくめい):北の果てにある暗い大海。
- 鯤(こん):伝説上の巨大な魚。
- 鵬(ほう):鯤が変化した、伝説上の巨大な鳥。
- 怒(ど)す:ここでは「怒る」ではなく、「奮い立つ」「奮起する」の意。
- 垂天(すいてん)の雲:空一面に垂れこめた雲。
- 蜩(ちょう):セミ。
- 学鳩(がくきゅう):小鳩。
- 決起(けっき)す:勢いよく飛び立つ。
- 搶(いた)る:突き当たる。ぶつかる。
- 控(ひか)へらる:引き止められる。地面に叩きつけられる。
背景知識:荘子の「逍遙遊(しょうようゆう)」
出典は、道家の代表的書物『荘子』の冒頭を飾る「逍遙遊」篇。「逍遙遊」とは、何ものにも束縛されず、絶対的な自由の境地でのびのびと遊ぶことを意味する。荘子はこの冒頭で、常識を超えた巨大な鵬と、ごく卑近なセミや鳩を対比させることで、「大きな知」と「小さな知」の違いを示した。小さな知(セミや鳩)は、自分たちの経験の範囲内でしか物事を理解できず、大きな知(鵬)の行動を笑う。荘子は、こうした相対的な大小の区別や、世俗的な価値判断から自由になることこそが、真の「逍遙遊」に至る道だと説いている。