漢文対策問題 039(『史記』より 胯下の辱)
本文
淮陰屠中少年、有侮信者。曰、「若雖長大、好帯刀剣、中情怯耳。」衆辱之曰、「信能死、刺我。不能死、出我胯下。」於是信孰視之、俛出胯下、蒲伏。一市人皆笑信、以為怯。
【書き下し文】
淮陰(わいいん)の屠中(とちゅう)の少年、信を侮(あなど)る者有り。曰く、「若(なんぢ)長大(ちゃうだい)にして、刀剣を帯ぶるを好むと雖(いへど)も、中心(ちゅうしん)は怯(けふ)なるのみ。」と。衆(しゅう)にて之を辱(はづか)しめて曰く、「信、能(よ)く死せば、我を刺せ。死する能はずんば、我が胯下(かか)より出でよ。」と。是(ここ)に於(お)いて信、之を孰視(じゅくし)し、俛(ふ)して胯下より出で、蒲伏(ほふく)す。一市(いっし)の人皆信を笑ひ、以(おも)へらく怯なりと。
【現代語訳】
【設問】
問1 若者に「我が胯下より出でよ」と辱められた韓信が、その屈辱に耐えて股をくぐった理由として、最も適当なものは何か。歴史的背景を踏まえて考えよ。
- 相手を殺す度胸が本当になく、臆病者であったから。
- その若者が市場の有力者の息子で、手出しをすれば後が怖いと判断したから。
- つまらない若者を殺して罪人となるよりも、一時的な恥に耐え、将来大きな志を成し遂げることを選んだから。
- 持っていた刀が飾り物で、実際には人を斬る能力がなかったから。
- いかなる挑発にも乗らないという、無抵抗主義を貫いていたから。
問2 傍線部「一市人皆笑信、以為怯」とあるが、市場の人々が韓信を笑ったのはなぜか。最も適当なものを選べ。
- 韓信が、若者の挑発に対して気の利いた反論が何もできなかったから。
- 立派な刀を差しながら、若者を斬りつけもせず、屈辱的な股くぐりを選んだ姿が、単なる臆病者の行動にしか見えなかったから。
- 韓信が股をくぐる様子が、あまりに滑稽で面白い見世物のようだったから。
- 日頃から韓信のことが嫌いだったので、彼が辱められるのを見て、溜飲が下がったから。
- 若者の無謀な挑発に、韓信が大人な対応で応じたので、若者の方がかえって恥をかいているのを面白がったから。
【正解と解説】
問1:正解 3
- 選択肢1:後に天下統一に貢献する大将軍となる韓信が、単なる臆病者であったとは考えにくい。この逸話は、彼の非凡さを示すためのものである。
- 選択肢2:相手の素性については、本文に記述がない。
- 選択肢3:◎ これがこの故事の核心である。目先の小さな怒りやプライドのために、その若者を殺して殺人犯となり、将来の大きな可能性を絶ってしまうのは愚かだと判断した。小事に耐えられない者は大事を成し遂げられない、という韓信の非凡な忍耐力と大局観を示している。
- 選択-肢4:刀が飾り物であったという記述はない。
- 選択肢5:無抵抗主義という思想ではなく、あくまで将来の目的のための戦略的な忍耐である。
問2:正解 2
- 選択肢1:反論の有無ではなく、行動が問題とされている。
- 選択肢2:◎ 市場の一般人には、韓信の深い思慮などわかるはずもない。彼らの目には、刀を持っているのに反撃もせず、股をくぐるという屈辱を選ぶ姿は、ただの「怯(臆病)」な行動にしか映らなかった。だからこそ、彼を嘲笑したのである。
- 選択肢3:滑稽さもあったかもしれないが、その根底にあるのは「臆病者だ」という軽蔑の感情である。
- 選択肢4:韓信が日頃から嫌われていたという記述はない。
- 選択肢5:若者が恥をかいているのではなく、韓信が一方的に辱められ、笑われている状況である。
【覚えておきたい知識】
重要句法:仮定形「~ずんば」
- 意味:「もし~でなければ」。打消の助動詞「ず」の仮定形。英語の "if not" にあたる。
- 本文の例:「死する能はずんば、我が胯下より出でよ」→ もし死ぬことができないのであれば、俺の股の下から出ていけ。
- 「AずんばB」で、「もしAしないなら、Bせよ」という選択を迫る文脈でよく使われる。
重要単語
- 淮陰(わいいん):漢の時代の地名。
- 屠中(とちゅう):市場の中。肉屋のあたり。転じて、市場のごろつき。
- 中心(ちゅうしん):心の中。本心。
- 怯(けふ)なる:臆病である。気が弱い。
- 衆(しゅう)にて:人々の前で。公然と。
- 胯下(かか):股の下。
- 孰視(じゅくし)す:じっと見つめる。熟視する。
- 俛(ふ)す:身をかがめる。
- 蒲伏(ほふく)す:腹ばいになって進む。這う。
背景知識・故事成語:「胯下の辱(かかのうたしめ)」
出典は『史記』淮陰侯列伝。後に漢王朝の建国に多大な功績を立て、劉邦、蕭何と共に「漢の三傑」と称される大元帥・韓信(かんしん)の若い頃の逸話。この故事から、「胯下の辱」は、「将来の大きな目的を達成するために、目先の屈辱に耐え忍ぶこと」のたとえとして使われる。韓信は後に故郷に錦を飾り、この若者を見つけ出すが、罰するどころか、「あの時お前が俺を辱めてくれたおかげで、俺は発奮できた」と言って、彼に官職を与えたという後日談も有名である。非凡な人物は、怒りの感情を制御し、全てを将来への糧とすることができるという、人物の器の大きさを示す物語である。