漢文対策問題 027(『論語』より 真の孝行)
本文
子游問孝。子曰、「今之孝者、是謂能養。至於犬馬、皆能有養。不敬、何以別乎。」
【書き下し文】
子游(しゆう)、孝を問ふ。子(し)曰く、「今(いま)の孝は、是(こ)れ能(よ)く養(やしな)ふを謂(い)ふ。犬馬(けんば)に至りては、皆(みな)能く養ふこと有り。敬(けい)せずんば、何(なに)を以(もっ)て別(わか)たん。」と。
【現代語訳】
弟子の游が「孝」とは何かとお尋ねした。先生(孔子)は言われた、「近頃の孝行というのは、ただ(親を)物質的に養うことだと考えられている。しかし、犬や馬といった動物に至るまで、みな(飼い主が)養ってはいるものだ。(そこに)心からの敬う気持ちがなければ、一体何をもって(動物を養うことと)区別するというのか、いや、区別などできないのだ。」と。
【問題】
孔子が考える、真の「孝」の本質とは何か。本文の趣旨に照らして、最も適当なものを選べ。
- 親に衣食住の不自由をさせないという物質的な扶養に加えて、親を心から敬う精神的な態度が伴ってこそ、真の孝行と呼べる。
- 親を敬う気持ちさえあれば、たとえ貧しくて十分に養うことができなくても、それは立派な孝行である。
- 親を養うことと、犬や馬を養うことは、敬う心があるかどうかで区別されるべきであり、両者は全く異なる行為である。
- 親の言うことには何でも従い、決して逆らわないことが、親を敬うことであり、孝行の基本である。
- 「孝」のあり方は時代と共に変わるものであり、現代においては親を物質的に養うことが最も重要である。
- 親を敬うだけでなく、犬や馬のような動物にも敬意を払って養うべきであるという、博愛の精神。
- ただ養うだけでは動物の世話と同じであり、親を人間として扱うためには、敬う心を示すことが最低限の礼儀である。
- 親を養い、敬うことは、結局は自分自身の徳を高めるための修行であると心得るべきである。
- 立派な家で親を養い、贅沢な食事をさせることが、親への敬意を表す最善の方法である。
- 親を敬うとは、親の健康を常に気遣い、病気にならないように手厚く世話をすることである。
【正解と解説】
正解:1
- 選択肢1:◎ 「能く養ふ」という物質的な側面と、「敬す」という精神的な側面の両方に言及し、後者がなければ動物の世話と区別がつかない、という本文の論理構成を完璧に説明している。
- 選択肢2:敬う気持ちが重要であることは正しいが、本文は「能く養ふ」ことを否定しているわけではない。それを前提とした上での話である。
- 選択肢3:内容は正しいが、これは孝行の定義そのものを説明している1に比べて、やや間接的な説明にとどまっている。
- 選択肢4:親への服従については、この本文では言及されていない。
- 選択肢5:「今の孝は~」と現状を批判しているので、現代のやり方を肯定しているわけではない。
- 選択肢6:動物愛護の話ではなく、あくまで親への孝行の話である。犬馬は比較のための「たとえ」として出されている。
- 選択肢7:「最低限の礼儀」というよりは、孝行の「本質」そのものであると説いている。
- 選択肢8:自己の修行という側面もあるかもしれないが、本文が直接論じているのは、あくまで親に対する行為としての「孝」である。
- 選択肢9:贅沢をさせることと敬意は必ずしも一致しない。本文は内面的な「敬」を問題にしている。
- 選択肢10:健康への気遣いも重要だが、本文が本質として挙げているのは、より包括的な「敬」の心である。
【覚えておきたい知識】
重要句法:反語形「何ヲ以テ~ン(や)」
- 意味:「どういう手段・方法で~できようか、いや、できはしない」。方法・手段がないことを強く主張する反語表現。
- 本文の例:「何を以て別たん(何を以て別たんや)」→ 何によって(動物を養うことと)区別できようか、いや、できはしない。
- 「何」や「誰」「安」などの疑問詞を含む反語形は、文脈に応じて意味を正確に捉えることが重要。
重要単語
- 子游(しゆう):孔子の弟子。文学に優れていたとされる。
- 孝(こう):親や先祖を大切にする徳。儒教倫理の根本。
- 養(やしな)ふ:生活の面倒を見る。扶養する。飼育する。
- 犬馬(けんば):犬や馬。家畜やペットの総称。ここでは人間以外の動物の代表として挙げられている。
- 敬(けい)す:敬う。尊敬する。心から大切に思う。
- 別(わか)つ:区別する。違いを分ける。
背景知識:儒教における「孝」と「敬」
出典は『論語』為政篇。儒教において「孝」は、あらゆる人間関係の基本であり、社会秩序の根幹をなす「仁」の出発点とされる。孔子は、単に親の生活を物質的に支えるだけでは不十分だと考えた。なぜなら、それは動物を飼育する行為と形の上では同じだからである。人間の子として親に行う「孝」が、動物の飼育と根本的に異なるのは、そこに心からの尊敬の念、すなわち「敬」があるからだと説いた。形だけの行為ではなく、その行為に込められた内面的な心情・精神性を何よりも重視する、という孔子の思想が端的に表れた一節である。