漢文対策問題 016(『荘子』より 胡蝶の夢)
本文
昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。
【書き下し文】
昔者(むかし)、荘周(そうしゅう)、夢(ゆめ)に胡蝶(こちょう)と為(な)る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自(みづか)ら喩(たの)しみて志(こころ)に適(かな)へるかな。周なるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚(さ)むれば、則(すなは)ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。知(し)らず、周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるかを。周と胡蝶とは、則ち必ず分(ぶん)有り。此(こ)れを之(こ)れ物化(ぶっか)と謂(い)ふ。
【現代語訳】
昔のこと、私、荘周は夢の中で蝶になった。ひらひらと楽しげに飛ぶ、まぎれもない蝶であった。自分でも楽しくて心ゆくまで満喫し、自分が荘周であることなどすっかり忘れていた。ところが、はっと目が覚めると、紛れもなく(現実の)荘周であった。こうなるともう、荘周である私が夢を見て蝶になったのか、それとも蝶である私が夢を見て荘周になっているのか、分からなくなってしまった。荘周と蝶とでは、確かに区別があるはずだ。(しかし夢と現実の境を越えて、このように)万物が一体となって変化していくこと、これを「物化」と言うのである。
【問題】
この話の結論である「此之謂物化(此れを之れ物化と謂ふ)」とは、どのような境地を指しているか。荘子の思想に即して、最も適当なものを選べ。
- 夢と現実の区別がつかなくなり、自分が誰なのかわからなくなるという、精神的に混乱した状態。
- 自分と蝶、夢と現実といったあらゆる区別を超越し、万物が一体となって流転していくとする、荘子の理想的な境地。
- 人間も蝶も、いずれは死んで自然に還っていくという、生命のはかなさを嘆く気持ち。
- 目が覚めた後も、夢の中の蝶であった時の楽しい記憶に浸り続ける、現実逃避の心理。
- 蝶になった夢を分析することで、自分自身の深層心理や願望を理解しようとする自己分析の過程。
- 人間が蝶に、蝶が人間になることもあり得るという、輪廻転生の思想。
- 夢の中の自分も現実の自分も、どちらも本当の自分であると肯定する、多角的な自己認識。
- 目が覚めて蝶でなくなったことにがっかりし、現実の自分を窮屈に感じるという、自由への憧れ。
- 荘周と蝶の区別は厳然として存在すると、当たり前の事実を再確認しているだけの状態。
- この世の全ては変化するのだから、一つの物事に固執すべきではないという、無常観に基づいた教え。
【正解と解説】
正解:2
- 選択肢1:精神的な混乱ではなく、むしろその混乱をきっかけとした、より高次の哲学的思索を指している。
- 選択肢2:◎ 「周と胡蝶とは、則ち必ず分有り」と、常識的な区別があることを認めつつ、夢の体験を通してその区別が絶対的ではないことを悟る。そして、その区別を超えて万物が流転する様を「物化」と結論づけており、荘子思想の核心を的確に説明している。
- 選択肢3:生命のはかなさというよりは、存在のあり方そのもの(=自分が荘周なのか蝶なのか)を問うている。
- 選択肢4:現実逃避ではなく、夢と現実の両方を見つめた上での哲学的な問いかけである。
- 選択肢5:自己分析という近代的な心理学の発想ではなく、古代の道家の思想である。
- 選択肢6:仏教的な輪廻転生とは異なり、あくまで荘子独自の「万物斉同」の思想である。
- 選択肢7:どちらも本当、という考えは近いが、「物化」はさらにその区別自体を乗り越え、万物が流動的な一体であるとする境地を指すため、2の方がより正確である。
- 選択肢8:がっかりしたというような感情的な側面より、哲学的な問いの方が主題である。
- 選択肢9:「分有り」と認めつつも、それが話の結論ではなく、それを超えた「物化」こそが結論である。
- 選択肢10:無常観は仏教的な用語であり、荘子の「物化」は、万物が絶えず変化していく様をより肯定的に捉えるニュアンスが強い。
【覚えておきたい知識】
重要句法:疑問形「Aか、Bか」
- 意味:「Aなのか、それともBなのか」。二つの事柄を並べて選択を問う形。文末の「与」は、ここでは疑問の語気を表す「か」と読む。
- 本文の例:「不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与」→ 周が夢で蝶になったのか、蝶が夢で周になったのか、わからない。
重要単語
- 荘周(そうしゅう):荘子の本名。荘子は尊称。ここでは自分自身を指して用いている。
- 胡蝶(こちょう):蝶のこと。
- 栩栩然(くくぜん):蝶がひらひらと楽しげに飛ぶさまを表す擬態語。
- 蘧蘧然(きょきょぜん):目が覚めて、紛れもなく自分自身であると確信するさま。現実の確かな存在感。
- 分(ぶん):区別。へだて。境界。
- 物化(ぶっか):万物が絶えず変化し、流転していくこと。荘子の「万物斉同(ばんぶつせいどう)」の思想の根幹であり、人間と自然、自と他、生と死などのあらゆる対立的な区別が無意味であることを示す。
背景知識・故事成語:「胡蝶の夢(こちょうのゆめ)」
出典は、道家思想の中心的な文献である『荘子』。この物語は、荘子の思想を最も象徴的に表すものとして非常に有名。この故事から、「胡蝶の夢」は、①夢と現実の区別がつかない境地、②自分と物とが一体となる境地(物我一体)、③人生のはかなさのたとえ、など様々な意味で使われる。常識的な分別知を疑い、あらゆる区別を乗り越えた自由な精神のあり方を説く、荘子思想のエッセンスが凝縮されている。