101(『史記』項羽本紀 より 四面楚歌)
本文
項王軍壁垓下、兵少食尽。漢軍及諸侯兵、囲之数重。(1)夜聞漢軍皆楚歌、項王乃大驚曰、「漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。」項王則夜起、飲帳中。有美人、名虞、常幸従。有駿馬、名騅、常騎之。於是項王乃悲歌慷慨、自為詩曰、
「力抜山兮気蓋世
時不利兮騅不逝
騅不逝兮可奈何
(2)虞兮虞兮奈若何」
歌数闋、美人和之。(3)項王泣数行下。左右皆泣、莫能仰視。
【書き下し文】
項王(こうおう)の軍、垓下(がいか)に壁(へき)すれども、兵は少なく食は尽(つ)く。漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重(すうちょう)なり。(1)夜、漢軍の皆(みな)楚歌(そか)するを聞き、項王乃(すなは)ち大いに驚きて曰く、「漢、皆已(すで)に楚を得たるか。是(こ)れ何ぞ楚人の多きや。」と。項王、則ち夜起(た)ちて、帳中(ちょうちゅう)に飲す。美人有り、名は虞(ぐ)、常に幸(こう)せられて従ふ。駿馬(しゅんめ)有り、名は騅(すい)、常に之に騎(の)る。是(ここ)に於(お)いて項王、乃ち悲歌(ひか)慷慨(こうがい)し、自(みづか)ら詩を為(つく)りて曰く、
「力は山を抜き 気は世を蓋(おほ)ふ
時、利あらずして 騅、逝(ゆ)かず
騅の逝かざるを 奈何(いかん)すべき
(2)虞や虞や 若(なんぢ)を奈何せん」と。
歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和(わ)す。(3)項王、泣(なみだ)数行(すうこう)下る。左右(さゆう)皆泣き、能(よ)く仰ぎ視(み)るもの莫(な)し。
【現代語訳】
「私の力は山を引き抜くほど強く、気迫は世を覆うほどであった。
しかし時の運は私に味方せず、愛馬の騅も前に進もうとしない。
騅が進まないのを、どうすることができようか。
(2)ああ虞よ、虞よ、お前をいったいどうしてやれようか。」と。
歌い終わるのを数回繰り返すと、美人の虞もそれに合わせて歌った。(3)項王の目からは、涙が幾筋も流れ落ちた。周りの者たちも皆泣いて、誰も顔を上げて項王の姿を見ることができなかった。
【設問】
問1 傍線部(1)「夜聞漢軍皆楚歌」とあるが、漢軍が楚の歌を歌ったのは、どのような心理的効果を狙った作戦か。最も適当なものを次から選べ。
- 楚軍の兵士たちに望郷の念を抱かせ、戦意を喪失させるため。
- 楚軍に、自分たちの故郷がすでに漢に降伏したと思い込ませ、絶望させるため。
- 楚の歌を歌うことで、楚からの降伏兵を歓迎している姿勢を見せるため。
- 夜の静寂の中で歌を響かせ、楚軍の兵士たちを眠らせないようにするため。
問2 項王の詩の中の「力抜山兮気蓋世」と「時不利兮騅不逝」の対比から読み取れる、彼の敗因に対する自己分析として、最も適当なものを次から選べ。
- 自分の圧倒的な力と、それに応えられなかった部下たちの不甲斐なさ。
- 自分の変わらぬ強さと、自分に味方しなくなった天運の対比。
- 若い頃の自分の力と、年老いて衰えてしまった現在の自分。
- 自分の武力と、劉邦の巧みな策略との差。
問3 傍線部(3)「項王泣数行下。左右皆泣、莫能仰視」の情景描写からうかがえることとして、最も適当でないものを一つ選べ。
- 項王が、部下の前で涙を見せるほど、深い悲しみと絶望を感じていたこと。
- 項王と部下たちの間に、苦楽を共にしてきた者同士の強い絆があったこと。
- 部下たちが、項王の悲痛な姿を直視できないほど、深く同情し、敬愛していたこと。
- 部下たちが、敗北を悟り、自分たちの身の振り方を考えて、悲しみにくれていたこと。
問4 この「四面楚歌」の場面で描かれる英雄・項王の姿として、最もふさわしいものを次から選べ。
- 最後まで逆転を信じ、部下を鼓舞しようとする不屈の指導者。
- 自らの戦略ミスを冷静に分析し、敗北の責任を受け入れる理性的な敗者。
- 運命が尽きたことを悟り、愛する者への思いを歌に託す、情熱的で悲劇的な英雄。
- 敵の策略にはまり、錯乱して部下にあたりちらす、孤独な独裁者。
【解答・解説】
問1:正解 1, 2
- 漢軍の「楚歌」作戦は、二重の心理的効果を狙ったものである。第一に、包囲された楚軍の兵士たちに故郷の歌を聞かせることで、望郷の念をかき立て、士気をくじく(1)。第二に、指導者である項王に「楚からの降伏兵がこんなに多いのか→楚はもう漢に征服されたのか」と誤解させ、完全に孤立したという絶望感を与える(2)。どちらも正解であり、この作戦の巧みさを示している。
問2:正解 2
- 「力は山を抜き、気は世を蓋う」は、自分の武勇が今も天下一であることを誇示している。それに対し、「時、利あらず」「騅、逝かず」は、天運が自分から去り、愛馬さえも動かないという、自分ではどうすることもできない状況を嘆いている。彼は、自分の能力は衰えていないが、天運(=時代の流れ)に見放されたために敗れるのだ、と分析しているのである。
問3:正解 4
- 「左右皆泣き」という記述は、部下たちが項王と心を一つにして悲しんでいることを示している。彼らが「仰ぎ視るもの莫し」なのは、敬愛する主君の涙に満ちた姿を直視するのが忍びないからである。この場面は、項王と部下の強い絆と、共通の悲劇を描いている。自分たちの身の振り方(保身)を考えて泣いているという解釈は、この文脈にはそぐわない。
問4:正解 3
- この場面の項王は、敗北を悟り、最後の宴を開く。そこで彼は、自らの武勇と不運を歌い、愛馬と愛する女性への断ち切れない思いを嘆き、涙を流す。これは、最後まで諦めない指導者でも、冷静な分析家でも、錯乱した独裁者でもない。自身の運命を受け入れ、人間的な感情を赤裸々に吐露する、悲劇の英雄の姿である。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 項王(こうおう):項羽のこと。楚の覇王。劉邦と天下を争った。
- 垓下(がいか):楚と漢が最後の決戦を行った場所。
- 楚歌(そか):故郷である楚の国の歌。
- 帳中(ちょうちゅう):陣中の幕の内。本陣。
- 虞(ぐ):虞美人のこと。項羽が最も愛した女性。
- 騅(すい):項羽の愛馬の名。一日に千里を走るとされた名馬。
- 慷慨(こうがい):いきどおり、嘆くこと。
- 闋(けつ):詩歌の一区切りを数える助数詞。
- 泣数行下(なみだすうこうくだる):涙が幾筋も流れ落ちるさま。
背景知識:四面楚歌(しめんそか)
出典は『史記』項羽本紀。楚の項羽と漢の劉邦が天下を争った最後の戦い「垓下の戦い」での一場面。漢軍に完全に包囲された項羽が、敵陣から故郷である楚の歌が聞こえてくるのを聞き、味方がすべて降伏して敵に回ったと絶望した故事。このことから、周囲をすべて敵に囲まれ、味方が一人もいなくなり孤立無援である状況のたとえとして、「四面楚歌」という言葉が使われる。悲劇の英雄・項羽の最期を象徴する、非常に有名な場面である。