現代文対策問題 58

本文

アパートの駐輪場で錆びついた自転車のタイヤに空気を入れていると、二階の部屋の窓が開いて、ヴァイオリンの音が聞こえてきた。最近引っ越してきた、音大生だという山田さんの音だ。決して上手とは言えない、ぎこちないメロディが、夏の生ぬるい空気に溶けていく。

私は、その音を聴くのが少し苦手だった。一生懸命なのは分かる。分かるからこそ、聴いているこちらまで苦しくなるような、切迫した響きがあった。まるで、見えない何かに追いつこうと必死にもがいているような音。私は自分の昔の姿を、その音に重ねていたのかもしれない。画家になる夢を追いかけて、もがき苦しんだ末に、結局諦めてしまったあの頃の自分を。

ある日、アパートの階段で山田さんとすれ違った。彼女は大きなヴァイオリンケースを抱え、俯いて歩いていた。その小さな背中は、今にも折れてしまいそうに、か弱く見えた。私は何か声をかけようとして、結局何も言えなかった。どんな言葉も、安っぽく響いてしまいそうだったからだ。

その夜、またヴァイオリンの音が聞こえてきた。やはり、同じ箇所でつまずいている。私はベランダに出て、じっと耳を澄ませた。ああ、まただ。音が止まる。数秒の沈黙。私は固唾を飲んで、次の音を待った。

すると、今度はつまずいた箇所から、もう一度、ゆっくりと音が始まった。まるで、転んだ子供が、そっと膝の砂を払って立ち上がるように。その音は、以前のような切迫した響きではなかった。不器用なままだけれど、どこか覚悟を決めたような、静かな強さがあった。私は思わず、ベランダの手すりを強く握りしめた。頑張れ。心の中で、そう呟いていた。


【設問1】私が山田さんのヴァイオリンの音を「少し苦手だった」のはなぜか。その理由として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 音大生なのにあまりに下手な演奏だったので、音楽的な才能のなさに苛立ちを感じたから。
  2. 夢を諦めてしまった自分の辛い過去の記憶が、彼女の必死な音によって呼び覚まされてしまうから。
  3. 隣人として彼女の出す騒音に悩まされており、練習をやめてほしいと思っていたから。
  4. 彼女の悲観的な性格が音に表れており、それを聴いていると気分が滅入ってしまうから。
【正解と解説】

正解 → 2

  • 1. 「苛立ち」ではなく「苦しくなる」とあり、もっと共感に近い感情です。
  • 2. 私は山田さんの音を「見えない何かに追いつこうと、必死にもがいているような音」と感じています。そして、その直後に「私は自分の昔の姿を、その音に重ねていたのかもしれない」「画家になる夢を追いかけて、もがき苦しんだ末に、結局諦めてしまったあの頃の自分を」と内省しています。この記述から、彼女の必死な音色が、夢破れた自分の過去の痛みを思い出させてしまうため、聴くのが辛いのだということが分かります。
  • 3. 「騒音」だとは思っていません。むしろ、その音の持つ意味を深く感じ取っています。
  • 4. 彼女の性格を「悲観的」と判断しているわけではありません。

【設問2】傍線部「すると、今度はつまずいた箇所から、もう一度、ゆっくりと音が始まった」とあるが、この音の変化を聞いた「私」はどのような気持ちになったか。最も適当なものを、次の中から一つ選べ。

  1. 諦めずに何度も挑戦する彼女のひたむきな姿に心を動かされ、応援したいという気持ちになった。
  2. 同じ失敗を繰り返す彼女の姿に呆れて、これ以上上達するのは無理だろうと見限った。
  3. ついに弱点を克服した彼女の成長を目の当たりにし、まるで自分のことのように喜んだ。
  4. 夜遅くまで続く練習の音にうんざりし、早く終わってほしいと願った。
【正解と解説】

正解 → 1

  • 1. それまでの「切迫した」響きとは違い、失敗した箇所からもう一度落ち着いて弾き始める音には「覚悟を決めたような静かな強さ」がありました。この変化に「私」は彼女の精神的な成長を感じ取ります。それは、単にもがくのではなく、失敗を受け入れ、乗り越えようとする意志の表れです。そのひたむきな姿に心を打たれ、「頑張れ」と応援する気持ちが自然と湧き上がってきたのです。
  • 2. 「見限った」のではなく、むしろ彼女の変化を肯定的に捉えています。
  • 3. まだ「弱点を克服した」わけではありません。克服しようとする意志の表れです。
  • 4. 「うんざり」しているのではなく、むしろ彼女の演奏に深く共感し、聞き入っています。

レベル:大学入学共通テスト対策|問題番号:58