現代文対策問題 50
本文
その日、私は、古いアパートの、最後の荷物を運び出していた。結婚を機に、十年近く住んだこの部屋を出ていくのだ。壁の傷、少しだけ軋む床。その一つ一つに、私のささやかな歴史が染み付いている。
がらんとした部屋の真ん中に、ぽつんと、一つの段ボール箱が残された。開けてみると、中には、元恋人との思い出の品々が、雑然と詰め込まれていた。二年前に別れた彼と撮った写真、もらった手紙、趣味の合わない置き物。新しい生活に、持っていくべきものではない。今日こそ、全て、処分しよう。そう、頭では、分かっている。しかし、私の手は、なぜか、動こうとしなかった。
その時、玄関のチャイムが鳴った。ドアを開けると、今の婚約者が、にこやかに立っていた。「手伝いに来たよ。大変だろう?」。彼は、部屋の中の段ボール箱に目を留め、事情を察したようだった。彼は、何も言わずに、箱のそばにしゃがみ込むと、中から、一枚の写真を、ひょいと取り上げた。「……楽しそうだな。この時間が、今の君を作ったんだな」。彼は、そう言って、写真を、そっと箱に戻した。
彼の言葉は、私の心の呪いを解く、魔法のようだった。私は、過去を「捨てる」ことばかり考えていた。しかし、彼は、その過去が、今の私に繋がっていると、言ってくれたのだ。過去を否定するのではなく、受け入れた上で、未来へ進めばいい。私は、彼に「ありがとう」と言って、段ボール箱の蓋を、そっと閉じた。
【設問1】傍線部①「そう、頭では、分かっている」が、「私の手は、なぜか、動こうとしなかった」のはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 元恋人への愛情がまだ残っており、彼との復縁の可能性を、捨てきれずにいたから。
- 思い出の品々を処分することが、楽しかった過去の自分自身までを、否定してしまうように感じられたから。
- 婚約者への罪悪感から、元恋人との思い出の品を、自分の手で処分することに、心理的な抵抗を感じていたから。
- 思い出の品々を一つ一つ確認するうちに、感傷的な気持ちになり、作業が中断してしまったから。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「復縁の可能性」を考えているというよりは、過去そのものへの執着です。
- 2. 「新しい生活に、持っていくべきものではない」と頭では理解しつつも、手が動かない。これは、思い出の品々が、単なる「モノ」ではなく、過去の自分の一部と化しているからです。それを「処分する」という行為は、その時間を共に生きた「過去の自分自身」を、「否定」し、消し去ってしまうように感じられます。その行為の重大さに、心がためらっているのです。婚約者の「この時間が、今の君を作ったんだな」という言葉が、この葛藤を解決する鍵となっていることからも、この解釈が最も適切です。
- 3. 婚約者への「罪悪感」は、処分できない理由ではなく、むしろ、処分すべきだと考える理由の一つです。
- 4. 「作業が中断した」のは事実ですが、その根本的な原因、つまり「なぜ中断したのか」という心理にまで踏み込んでいる2が、より優れた説明です。
【設問2】傍線部②婚約者の「……楽しそうだな。この時間が、今の君を作ったんだな」という言葉が、「私の心の呪いを解く、魔法のようだった」のはなぜか。その理由の説明として最も適当なものを、次の中から一つ選べ。
- 婚約者が、自分の過去に全く嫉妬していないことを知り、彼の心の広さに、改めて感動したから。
- 過去を「捨てるべきもの」と捉えていた「私」に対し、婚約者が、それを「現在の自分を形成した、肯定すべき一部」として、受け入れてくれたから。
- 婚約者の言葉によって、元恋人との思い出は、実は、たいして重要なものではなかったのだと、客観的に気づくことができたから。
- 婚約者が、自分の代わりに、思い出の品を処分してくれることを、それとなく示唆してくれたように感じられたから。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「嫉妬していない」ことは事実ですが、感動の核心は、もっと「私」自身の問題に関わっています。
- 2. 「私」は、「過去を『捨てる』ことばかり考えていた」ため、処分できずにいました。これが「呪い」の正体です。それに対し、婚約者は、その過去を「今の君を作った」と、現在の自分に繋がる、必要な時間であったと「肯定」してくれました。これにより、「私」は、過去を無理に消し去る(捨てる)必要はなく、それも自分の一部として「受け入れた上で、未来へ進めばいい」のだと気づくことができました。この、過去に対する捉え方の劇的な転換こそが、「呪いを解く魔法」だったのです。
- 3. 思い出が「重要ではなかった」と気づいたのではなく、むしろ、その重要性を肯定されたことで、前に進めるようになったのです。
- 4. 彼が「処分してくれる」ことを示唆したわけではありません。むしろ、彼が過去を肯定してくれたからこそ、「私」は自分の手で「蓋を閉じる」という、前向きな区切りをつけることができたのです。
【設問3】本文の結末で、「私」が「段ボール箱の蓋を、そっと閉じた」という行動に込められた意味として、最も適当なものを次の中から一つ選べ。
- 婚約者への配慮から、とりあえず、元恋人との思い出を、見えないように隠した。
- 過去の思い出を、無理に捨てるのではなく、自分の一部として大切に心にしまい、未来へと歩き出すことにした。
- 婚約者と協力して、後で、この段ボール箱を、一緒に処分することに決めた。
- 元恋人との思い出とは完全に決別し、二度とこの箱を開けないことを、心に誓った。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「とりあえず隠した」という、その場しのぎの消極的な行動ではありません。もっと前向きで、決意のこもった行動です。
- 2. 婚約者の言葉によって、過去を「否定するのではなく、受け入れた上で、未来へ進めばいい」と気づいた後の行動です。したがって、「蓋を閉じる」という行為は、過去をゴミとして「捨てる」のでも、見て見ぬふりをするのでもなく、今の自分を形作った大切な一部として、心の中にきちんと位置づけ、その上で、新しい未来へと歩き出す、という前向きな区切りを象徴しています。
- 3. 「一緒に処分することに決めた」とは書かれていません。「蓋を閉じた」という行為は、処分とは違う、新しい向き合い方を示唆します。
- 4. 「完全に決別し、二度と開けない」という強い拒絶ではなく、むしろ、過去を受け入れた上での、穏やかな心の状態です。
【設問4】本文の内容と合致しないものを、次の中から一つ選べ。
- 「私」は、結婚を機に、十年近く住んだアパートから、引っ越すことになっていた。
- 「私」は、元恋人との思い出の品を、ためらうことなく、すぐに処分することができた。
- 婚約者は、「私」が元恋人との思い出の品を持っていることに対し、寛容な態度を示した。
- 「私」は、婚約者の言葉によって、過去との向き合い方について、新たな視点を得た。
【正解と解説】
正解 → 2
- 1. 「結婚を機に、十年近く住んだこの部屋を出ていくのだ」とあり、合致します。
- 2. 「今日こそ、全て、処分しよう。そう、頭では、分かっている。しかし、私の手は、なぜか、動こうとしなかった」とあり、「ためらうことなく、すぐに処分」できたわけではありません。明確に間違いです。
- 3. 写真を見ても、咎めることなく、「楽しそうだな。この時間が、今の君を作ったんだな」と、肯定的な言葉をかけており、「寛容な態度」と言えます。合致します。
- 4. 「過去を否定するのではなく、受け入れた上で、未来へ進めばいい」という「新たな視点」を得ています。合致します。
語句説明:
軋む(きしむ):物と物が擦れ合って、ぎしぎしと音を立てること。
雑然(ざつぜん):物が、乱雑に散らばっているさま。
呪い(のろい):人の不幸を願う言葉や行為。ここでは、人の心を縛り、自由な行動を妨げる、強い思い込みの比喩。
感傷(かんしょう):物事に感じて心を痛めること。特に、寂しさや悲しさを感じやすい心の状態。