153(『荀子』勧学 より 君子と小人の学び)
本文
(1)君子之学也、入乎耳、箸乎心、布乎四体、形乎動静。端而言、蝡而動、一可以為法則。
(2)小人之学也、入乎耳、出乎口。口耳之間、則四寸。曷足以美七尺之躯哉。
古之学者為己、今之学者為人。君子之学也、以美其身。小人之学也、以為禽犢。故不問而告謂之傲、問一而告二謂之囋。傲・囋、非也。君子如響矣。
【書き下し文】
(1)君子(くんし)の学や、耳に入(い)り、心に箸(ちょ)し、四体(したい)に布(し)き、動静(どうせい)に形(あら)はる。端(たん)として言ひ、蝡(ぜん)として動くも、一(いつ)として法則(ほうそく)と為(な)す可(べ)し。
(2)小人(しょうじん)の学や、耳より入りて、口より出(い)づ。口耳(こうじ)の間(かん)は、則(すなは)ち四寸(しすん)。曷(なん)ぞ以て七尺(しちせき)の躯(み)を美(び)とするに足らんや。
古(いにしへ)の学者は己(おのれ)の為にし、今の学者は人の為にす。君子の学や、以て其の身を美とす。小人の学や、以て禽犢(きんとく)と為す。故に問はずして告ぐる、之を傲(ごう)と謂ひ、一を問ひて二を告ぐる、之を囋(さん)と謂ふ。傲・囋は、非なり。君子は響(ひびき)の如(ごと)し。
【現代語訳】
(2)つまらない人間の学問は、耳から入って、すぐに口から出ていってしまう。口と耳の間は、わずか四寸(約12cm)だ。どうして、それで七尺(約2m)もあるこの体全体を立派にすることができようか(いや、できない)。
昔の学者は自分の(人格を磨く)ために学んだが、今の学者は他人(にひけらかす)ために学ぶ。君子の学問は、それによって自分自身の人間性を立派にする。つまらない人間の学問は、自分を(人に献上する)贈り物のように見せかけるための道具にすぎない。だから、問われないのに語り出すのを「傲(おごり)」といい、一つ問われただけなのに二つも答えるのを「囋(口数が多い)」という。おごりや多弁は、よくないことだ。君子は、(問われれば)こだまのように(的確に)応えるものである。
【設問】
問1 傍線部(1)で述べられている「君子の学」は、学んだ知識がどのようにその人物を変えていくかを示している。その過程として最も適当なものを次から選べ。
- 知識が、人格の中核となり、その人のあらゆる言動の規範となる。
- 知識が、その人の教養の深さを示し、人々からの尊敬を集める。
- 知識が、その人の身体能力を高め、健康な生活をもたらす。
- 知識が、その人の感性を豊かにし、芸術的な才能を開花させる。
【解答・解説】
正解:1
「君子の学」は、「耳に入り→心に箸し→四体に布き→動静に形はる」というプロセスをたどる。これは、学んだことが単なる情報として頭に留まるのではなく、心(人格)に深く根づき、体全体に行き渡り、最終的にはその人の日常のあらゆる立ち居振る舞いとして、自然に表出することを意味している。つまり、学問が人格そのものを形成し、その人の言動すべてが「法則(手本)」となる、という人格陶冶の過程を描いている。
問2 傍線部(2)「小人之学也、入乎耳、出乎口」という記述が批判している学問のあり方として、最も適当なものを次から選べ。
- 学んだことを自分のものとせず、ただ受け売りで他人にひけらかすだけの、浅薄なあり方。
- 他人の意見に耳を傾けるだけで、自らの意見を口に出すことができない、主体性のないあり方。
- 耳で聞いたことをすぐに口に出してしまい、秘密を守ることができない、軽率なあり方。
- 自分の知識をひたすら言葉でひけらかし、他人の意見に耳を貸そうとしない、独善的なあり方。
【解答・解説】
正解:1
「小人の学」は、耳から入った知識が、「心」や「四体」を経由せず、直接「口」から出て行ってしまう。これは、学んだ内容がその人の人格に何の影響も与えず、ただ言葉としてオウム返しにされるだけ、という状態を比喩的に表現したものである。知識が、自己の人格を磨くため(為己)ではなく、他人にひけらかすため(為人)の道具になっている、浅薄な学問態度を批判している。
問3 筆者が「古之学者為己、今之学者為人」と嘆いているが、ここでの「己の為」と「人の為」の学問の目的の違いを最もよく説明しているものはどれか。次から選べ。
- 【己の為】自己の人格を完成させること - 【人の為】他者からの名声や評価を得ること
- 【己の為】自分一人の利益を追求すること - 【人の為】社会全体の利益に貢献すること
- 【己の為】自分の知的好奇心を満たすこと - 【人の為】他人に知識を授けること
- 【己の為】自分の専門分野を深く究めること - 【人の為】幅広い分野の知識を身につけること
【解答・解説】
正解:1
この対比は、荀子(そして孔子も)の学問観の核心である。「己の為の学」とは、学問を通じて自分自身の人格を磨き、立派な人間(君子)になることを目的とする、内向きの修養である(君子之学也、以美其身)。一方、「人の為の学」とは、学んだ知識を他人にひけらかし、人からの評判や称賛を得ることを目的とする、外向きのパフォーマンスである(小人之学也、以為禽犢)。荀子は、後者のような現代の学問の風潮を嘆いている。
【覚えておきたい知識】
重要単語
- 君子(くんし):徳の高い、理想的な人物。
- 箸(ちょ)す:しっかりと根づく、付着する。
- 布(し)く:すみずみまで行き渡る。
- 動静(どうせい):動きと静止。あらゆる立ち居振る舞い。
- 法則(ほうそく):手本、模範。
- 小人(しょうじん):徳の低い、つまらない人物。
- 四寸(しすん):古代の長さの単位。約12cm。
- 七尺の躯(しちせきのみ):七尺(約2m)の体。成人男性の体全体を指す。
- 己の為にす(おのれのためにす):自分の人格を磨くために学ぶ。
- 人の為にす(ひとのためにす):他人にひけらかすために学ぶ。
- 禽犢(きんとく):人に贈るための鳥や子牛。転じて、自分を飾るための道具。
- 傲(ごう)・囋(さん):「傲」は問われないのに語るおごり、「囋」は一つ問われて二つ答える多弁。どちらも君子のとるべき態度ではないとされる。
背景知識:君子の学と小人の学
出典は『荀子』勧学篇。「勧学」とは「学問を勧める」の意で、荀子の思想の根幹である教育の重要性を説いた篇である。荀子は、人間の本性を「悪」と捉えたため、後天的な学問による人格の陶冶を何よりも重視した。この一節は、その学問のあり方について、二つの対照的なモデルを提示している。一つは、学んだことがその人の血肉となり、人格全体を立派にする「君子の学」。もう一つは、知識がただ口先だけのものにとどまり、人格に何の影響も与えない「小人の学」である。これは、知識の量ではなく、学問がその人の生き方やあり方をいかに変えるか、という質的な側面を重視する、荀子の厳しい学問観を示している。