151(『荘子』養生主 より 庖丁牛を解く)

本文

庖丁為文恵君解牛。手之所触、肩之所倚、足之所履、膝之所踦、砉然嚮然、奏刀騞然、莫不中音。合於桑林之舞、乃中経首之会。
文恵君曰、「(1)嘻、善哉。技蓋至此乎。」
庖丁釈刀対曰、「臣之所好者、道也。進乎技矣。(2)始臣之解牛之時、所見無非全牛者。三年之後、未嘗見全牛也。方今之時、臣以神遇、而不以目視。官知止而神欲行。依乎天理、批大郤、導大窾、因其固然。技経肯綮之未嘗微礙、而況大軱乎。良庖歳更刀、割也。族庖月更刀、折也。(3)今臣之刀十九年矣、所解数千牛矣、而刀刃若新発於硎。彼節者有間、而刀刃者無厚。以無厚入有間、恢恢乎其於遊刃必有余地矣。是以十九年而刀刃若新発於硎。雖然、毎至於族、吾見其難為、怵然為戒、視為止、行為遅。動刀甚微、謋然已解、如土委地。提刀而立、為之四顧、為之躊躇満志。善刀而蔵之。」
文恵君曰、「善哉。吾聞庖丁之言、得養生焉。」

【書き下し文】
庖丁(ほうちょう)、文恵君(ぶんけいくん)の為に牛を解(と)く。手の触るる所、肩の倚(よ)る所、足の履(ふ)む所、膝の踦(よ)る所、砉然(けきぜん)嚮然(きょうぜん)として、刀を奏(すす)むること騞然(かくぜん)として、音に中(あた)らざるは莫(な)し。桑林(そうりん)の舞に合ひ、乃(すなは)ち経首(けいしゅ)の会(かい)に中る。
文恵君曰く、「(1)嘻(ああ)、善(よ)きかな。技(わざ)、蓋(なん)ぞ此(ここ)に至れるか。」と。
庖丁、刀を釈(お)きて対(こた)へて曰く、「臣の好む所の者は、道なり。技に進(すす)めり。(2)始め臣の牛を解きし時、見る所は全牛(ぜんぎゅう)に非(あら)ざるは無かりし者なり。三年の後、未(いま)だ嘗(かつ)て全牛を見ず。今の時に方(あた)りては、臣、神を以て遇(ぐう)し、而(して)目を以て視(み)ず。官知(かんち)止(や)みて神欲(しんよく)行(おこな)はる。天理(てんり)に依(よ)り、大郤(たいげき)を批(う)ち、大窾(たいかん)に導き、其の固然(こぜん)に因(よ)る。技(ぎ)は肯綮(こうけい)の未だ嘗て微(かす)かに礙(さわ)らざるに経(わた)る、而るを況(いは)んや大軱(たいか)をや。良庖(りょうほう)は歳(とし)ごとに刀を更(か)ふ、割(さ)けばなり。族庖(ぞくほう)は月ごとに刀を更ふ、折(を)ればなり。(3)今、臣の刀は十九年にして、解く所の牛は数千なり、而して刀刃(とうじん)は若(も)し新たに硎(といし)に発(はっ)せしがごとし。彼の節(せつ)には間(かん)有りて、刀刃には厚み無し。厚み無きを以て間有るに入(い)る、恢恢乎(かいかいこ)として其の刃を遊ばすに必ず余地有り。是(ここ)を以て十九年にして刀刃は若し新たに硎に発せしがごとし。然(しか)りとは雖(いへど)も、族(ぞく)に至る毎(ごと)に、吾(われ)其の為し難(がた)きを見て、怵然(じゅつぜん)として為(ため)に戒(いまし)め、視(し)は為に止まり、行(こう)は為に遅し。刀を動かすこと甚(はなは)だ微(かす)かに、謋然(かくぜん)として已(すで)に解け、土の地に委(お)つるが如し。刀を提(ひつさ)げて立ち、為に四顧(しこ)し、為に躊躇(ちゅうちょ)して志(こころ)を満たす。刀を善(ぬぐ)ひて之を蔵(をさ)む。」と。
文恵君曰く、「善きかな。吾、庖丁の言を聞き、養生(ようじょう)を得たり。」と。

【現代語訳】
料理人の丁が、文恵君のために牛を解体した。彼の手が触れるところ、肩が寄せるところ、足が踏むところ、膝で押さえるところ、骨から肉が離れる音はさくさくと響き、刀の進み具合は滑らかで、その音はみな音楽のようであった。古代の名曲「桑林」の舞に合致し、堯の時代の「経首」という曲のリズムにも乗っていた。
文恵君は言った、「(1)ああ、素晴らしい。技術というものは、ここまでの境地に達するものなのか。」と。
庖丁は刀を置いて答えて言った、「私が求めているものは、単なる技術(技)を超えた『道』です。(2)私が牛の解体を始めたばかりの頃は、私の目に映るのは牛全体の姿だけでした。三年経つと、もはや牛全体の姿は見えなくなりました。そして今となっては、私は精神で牛に接し、目で見てはおりません。感覚器官の働きは止まり、精神の欲求だけが働いているのです。牛の自然の筋目(天理)に従い、大きな隙間に刃を入れ、大きな空洞に沿って刀を動かし、牛が本来持っている構造に従うだけです。ですから、技術が腱や筋にさえわずかに触れることがありません。ましてや、大きな骨に当たることなどありましょうか。上手な料理人は、肉を断ち切るので、一年に一度刀を替えます。下手な料理人は、骨に当てて折るので、一ヶ月に一度刀を替えます。(3)今、私のこの刀は十九年になり、解体した牛は数千頭になりますが、刃先はまるで砥石で研いだばかりのようです。あの関節には隙間があり、一方、刀の刃には厚みがありません。厚みのないものを隙間のある所に入れるのですから、広々として、刃を自由に動かすのに十分な余裕があります。だから十九年経っても、刃先は研ぎたてのようなのです。そうはいっても、筋や骨が集まった複雑な箇所にさしかかるたびに、私はその難しさを感じ、はっと慎重になり、視線はその一点に集中し、動きはゆっくりとなります。刀を動かすこときわめてわずかに、すると、ばらばらと肉は解け、まるで土塊が地面に崩れ落ちるかのようです。私は刀を手に提げて立ち、その出来栄えに四方を見渡し、しばらくたたずんで満足感に浸ります。そして、刀をきれいに拭ってから、それを鞘に収めるのです。」と。
文恵君は言った、「素晴らしい。私は庖丁の言葉を聞いて、生きる術(養生)を会得したぞ。」と。

【設問】

問1 傍線部(2)で庖丁が語る、彼の技術の三段階の進歩について、その認識の変化を最もよく説明しているものを次から選べ。

  1. 【第一段階】牛を部分の集合として見る → 【第二段階】牛を一つの生命として見る → 【第三段階】牛と一体化して見る
  2. 【第一段階】牛の全体像を視覚で捉える → 【第二段階】牛の内部構造を分析的に見る → 【第三段階】牛の構造を精神で直観的に捉える
  3. 【第一段階】牛をおそるおそる見る → 【第二段階】牛を冷静に見る → 【第三段階】牛を見なくても解体できる
  4. 【第一段階】牛を単なる肉の塊として見る → 【第二段階】牛の各部位の価値を見る → 【第三段階】牛の生命の神秘を見る
【解答・解説】

正解:2

庖丁は、自らの進歩を「始め…所見無非全牛者(最初は牛全体しか見えなかった)」→「三年之後、未嘗見全牛也(三年後には、牛全体は見えなくなった)」→「方今之時、臣以神遇、而不以目視(今では精神で接し、目では見ない)」と説明している。これは、①対象の全体像を漠然と捉える段階から、②対象を分析的に理解し、その内部構造(筋や骨の隙間)が見えるようになる段階へ、そして最終的には、③視覚的な情報に頼らず、精神的な直観で対象の「天理(自然の理法)」そのものを捉える境地へと至ったことを示している。

問2 傍線部(3)で、庖丁の刀が十九年間も新品同様であった理由として、彼自身が述べていることは何か。最も適当なものを次から選べ。

  1. 厚みのない刃を、骨と肉の間にあるわずかな隙間に通しているから。
  2. 定期的に刀を砥石で丁寧に研いでいるから。
  3. 解体する牛を、骨の柔らかい若い牛に限定しているから。
  4. 複雑な箇所では、刀の動きを非常にゆっくりにしているから。
【解答・解説】

正解:1

庖丁は、刀が傷まない理由を「彼節者有間、而刀刃者無厚。以無厚入有間、恢恢乎其於遊刃必有余地矣(関節には隙間があり、刃には厚みがない。厚みのないものを隙間に入れるのだから、広々として刃を動かすのに余裕がある)」と説明している。つまり、彼は肉や骨を力ずくで「断つ」のではなく、牛が本来持つ構造(隙間)に、厚みのない刃を滑り込ませているだけなので、刃に全く負担がかからないのである。

問3 文恵君が、庖丁の牛の解体の話を聞いて「養生を得たり(生きる術を会得した)」と言ったのはなぜか。その解釈として最も適当なものを次から選べ。

  1. 庖丁のように一つの技術を極めれば、一生安泰に暮らせるという教訓を得たから。
  2. 庖丁が刀を骨に当てず長持ちさせるように、人生においても無理なことや対立を避け、自然の理に従って生きれば、心身を損なうことなく天寿を全うできるという悟りを得たから。
  3. 庖丁が、複雑な部分では慎重になるように、人生の難局においては、常に慎重に行動すべきだという処世術を学んだから。
  4. 庖丁が解体後に満足感に浸るように、人生の各段階で達成感を得ることが、豊かに生きる秘訣だと気づいたから。
【解答・解説】

正解:2

この寓話全体が、「養生(生を養うこと、よく生きること)」の比喩となっている。「牛」は我々が向き合う複雑な現実社会、「刀」は我々自身の精神や生命力、「肯綮」や「大軱」は社会における困難や対立を象徴している。文恵君は、庖丁が牛の自然の理法(天理)に従い、無理に骨と戦うことなく刀を滑らせることで、刀を全く損なうことがないのを見て、人生も同様に、世の中の道理に従い、無用な対立や抵抗を避けて生きれば、自らの精神をすり減らすことなく、のびのびと天寿を全うできるという、「無為自然」の生き方の極意を悟ったのである。

【覚えておきたい知識】

重要単語

背景知識:庖丁牛を解く(ほうちょう うしをとく)

出典は『荘子』養生主篇。「養生主」とは「生を養うことの主眼」の意。この話は、荘子の「無為自然」の思想を、料理人の神がかった技術を通して描いた、極めて有名な寓話である。庖丁の技術は、努力を重ねた結果、もはや意識的な技術(有為)を超え、対象(牛)の自然の理法と一体化し、何の抵抗もなく刀を動かせる「道」の境地に達している。これは、人間が世の中を生きていく上でも、小手先の知恵や力で無理に対立するのではなく、物事の自然な流れに身を任せることで、かえって心身を損なうことなく、のびのびと生を全うできるという、荘子の理想的な生き方を示している。

レベル:難関大対策|更新:2025-07-26|問題番号:151