1 2-1-4. 三大改革の徹底比較 - ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

2-1-4. 三大改革の徹底比較 - 幕政立て直しの苦闘、その光と影

江戸幕府の約260年という長い歴史は、決して平穏無事なだけではなかった。幕府はその存続期間中、財政の悪化、武士の綱紀の緩み、社会矛盾の噴出といった様々な課題に直面し、そのたびに「改革」という名のメスを入れ、体制の立て直しを図ろうとしてきた。その中でも特に規模が大きく、後世に大きな影響を与えたのが、享保の改革(きょうほうのかいかく)寛政の改革(かんせいのかいかく)、そして天保の改革(てんぽうのかいかく)の三つだ。これらを総称して「三大改革」と呼ぶ。

このページでは、これら三大改革が、それぞれどのような時代背景のもとで、誰によって、どのような理念で進められ、具体的にどんな政策が実行されたのか。そして、その結果としてどのような成果を上げ、またどのような限界に直面したのかを、徹底的に比較分析していく。なぜ改革は繰り返されたのか? なぜ根本的な解決には至らなかったのか? これらの問いを通じて、江戸幕府の政治が抱えていた構造的な課題と、その対応の苦闘、そして歴史の必然とも言える変化のうねりを感じ取ってほしい。東大入試では、これらの改革の比較や、特定の改革が持つ歴史的意義を深く論じさせる問題が頻出するから、ここでしっかりとその本質を掴もう。

 

三大改革 比較一覧表

比較項目 享保の改革 寛政の改革 天保の改革
時期 1716年~1745年頃 1787年~1793年頃 1841年~1843年頃
指導者 (中心人物) 8代将軍 徳川吉宗 老中 松平定信 (11代将軍家斉初期) 老中 水野忠邦 (12代将軍家慶期)
主な時代背景・課題 元禄期の放漫財政、物価上昇、幕府財政窮乏、綱紀弛緩 田沼時代の商業重視・賄賂政治、天明の飢饉、社会不安、幕府権威低下 大御所時代の幕政弛緩、天保の大飢饉、大塩平八郎の乱、アヘン戦争の情報による対外的危機感
基本方針・理念 「原点回帰 (家康期)」「質素倹約」「実学奨励」「武備充実」 「祖法への復帰 (吉宗期)」「士風刷新」「緊縮財政」「風紀取締」 「享保・寛政の精神に倣う」「綱紀粛正」「難局打開」「国内統一強化」
財政再建策 (例) 倹約令、上米の制、新田開発、定免法、貨幣改鋳 (元文金銀) 倹約令、囲米の制七分積金棄捐令 倹約令、上知令 (失敗)、貨幣改鋳、株仲間の解散
農村・都市政策 (例) 新田開発奨励、目安箱設置、小石川養生所 旧里帰農令、江戸の町会所再興 人返しの法、株仲間の解散 (物価抑制狙い)
綱紀・思想統制 (例) 武芸奨励、公事方御定書 寛政異学の禁、出版統制、風俗取締 風俗取締、奢侈禁止
主な成果 一時的な財政好転、法典整備、石高増、実学奨励 一時的な財政改善、綱紀引き締め、江戸の治安改善 ほとんど成果なし、短期間で頓挫
主な限界・問題点 年貢増徴への依存、百姓一揆増加、緊縮によるデフレ傾向 厳格すぎる統制への不満、経済活力の低下、田沼時代の積極策否定 強引な政策への反発、経済混乱 (株仲間解散)、上知令の失敗、幕府権威のさらなる失墜

A. 享保の改革 (きょうほうのかいかく)

指導者: 8代将軍 徳川吉宗 / 時期: 1716年~1745年頃

背景・課題

元禄文化が花開いた一方で、幕府財政は悪化し、武士の気風も緩んでいた。吉宗は紀州藩主時代の経験を活かし、将軍自らが先頭に立って幕政の立て直しに着手した。目標は、徳川家康の時代の健全な政治を取り戻すことだった。

基本方針・スローガン

「質素倹約の徹底」「武芸の奨励」「実学の重視」「財政再建」

主要政策

  • 財政再建: 上米の制(大名に石高に応じて米を上納させ、見返りに参勤交代の江戸在府期間を半減)、定免法(年貢率を一定期間固定)、新田開発の奨励、元文金銀への貨幣改鋳(良質な貨幣を発行しデフレ脱却と物価安定を図った)。
  • 法制・社会: 公事方御定書(裁判や刑罰の基準を定めた法典)、目安箱の設置(庶民の意見を聞く)、小石川養生所の設立(貧民施療施設)。
  • 人材登用・学問: 足高の制(役職に応じて禄高を補い、有能な人材を登用しやすくした)、漢訳洋書の輸入一部解禁(キリスト教関連以外)。

成果

一時的に幕府財政は好転し、石高も増加。法典の整備は、その後の幕政運営の基準となった。実学奨励は蘭学発展の素地を作った。

限界・問題点

年貢率の引き上げ(五公五民など)は農民の負担を増やし、百姓一揆が増加する一因となった。徹底した倹約は経済を停滞させた面もある。

B. 寛政の改革 (かんせいのかいかく)

指導者: 老中 松平定信 / 時期: 1787年~1793年頃 (11代将軍家斉初期)

背景・課題

田沼意次の商業資本を重視した政治は、一方で役人の賄賂が横行し、幕府の権威を損ねた。また、天明の大飢饉(1782~87年)が発生し、社会不安が増大。定信は、祖父である吉宗の享保の改革を理想とし、幕政の引き締めを図った。

基本方針・スローガン

「享保の精神への回帰」「士風の刷新と綱紀粛正」「緊縮財政による財政再建」「農村復興」

主要政策

  • 財政・社会: 囲米の制(飢饉対策の備蓄米)、旧里帰農令(江戸に出稼ぎに来た農民に帰村を奨励)、棄捐令(旗本・御家人の札差からの借金を一部棒引き)、七分積金(江戸町費の節約分を積み立て貧民救済や災害復旧に充てる)。
  • 思想・文化統制: 寛政異学の禁(幕府の学問所である昌平坂学問所で朱子学以外の学問の講義を禁止)、出版統制の強化(洒落本作家の山東京伝などが処罰された)。

成果

幕府財政は一時的に改善し、江戸の治安も回復。武士の規律も引き締まったとされる。

限界・問題点

あまりに厳格な緊縮政策や風俗取締は、武士や庶民の強い反感を買い、「白河の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」と風刺された。田沼時代の経済の活力を削ぎ、社会を停滞させたという批判もある。

C. 天保の改革 (てんぽうのかいかく)

指導者: 老中 水野忠邦 / 時期: 1841年~1843年頃 (12代将軍家慶期)

背景・課題

11代将軍家斉の「大御所時代」と呼ばれる放漫な政治の後、天保の大飢饉(1833~39年)が全国を襲い、百姓一揆や打ちこわしが激化。大塩平八郎の乱(1837年)は幕府に大きな衝撃を与えた。さらに、アヘン戦争(1840~42年)で清がイギリスに敗北した情報は、深刻な対外的危機感を日本にもたらした。

基本方針・スローガン

「享保・寛政の改革の精神に倣う」「綱紀粛正と奢侈禁止」「物価引き下げ」「国内防衛体制の強化」

主要政策

  • 経済・社会: 株仲間の解散(物価高騰の原因とみなし解散させたが、逆に流通を混乱させた)、人返しの法(江戸から農村への強制帰還)、上知令(あげちれい)(江戸・大坂周辺の約50万石の大名・旗本領を幕領にしようとしたが、猛反対に遭い失敗)、倹約令の徹底。
  • 対外・軍事: 江戸湾防備の強化、洋式砲術の導入検討。

成果

ほとんど成果を上げることができず、わずか2年余りで失敗に終わった。

限界・問題点

水野忠邦の強権的な手法は、大名、旗本、商人、庶民など各層からの激しい反発を招いた。株仲間の解散は経済を混乱させ、上知令の失敗は幕府の権威失墜を決定的なものにした。改革の失敗は、幕府の統治能力の限界を露呈させた。

東大での着眼点: 天保の改革がなぜ失敗に終わったのか、その要因を国内の社会経済状況、幕府の政治力、そして国際環境の変化といった複数の側面から考察することが求められる。他の改革との比較も重要。

三大改革の比較と歴史的意義:なぜ改革は繰り返され、そして限界があったのか?

こうして三大改革を比較してみると、いくつかの共通点と相違点、そして江戸幕府が抱えていた根深い課題が見えてくる。

共通点

相違点

なぜ改革は繰り返されたのか? そしてその限界とは?

三大改革が目指した財政再建や社会の安定は、一時的な効果はあっても長続きせず、幕府は何度も同様の課題に直面した。その根本的な原因は、幕藩体制というシステム自体が抱える構造的な矛盾にあったと言えるだろう。

結局のところ、三大改革は、これらの構造的な矛盾に根本からメスを入れるというよりは、旧来の体制の枠内での対症療法的な性格が強かった。そのため、社会経済の大きな変化のうねりに十分に対応しきれず、その効果は限定的とならざるを得なかった。これらの改革の試みと、その成功・失敗の経験は、幕末の日本が新たな国家体制を模索する上で、重要な教訓となっていったんだ。

【学術的豆知識】「改革」という言葉の多義性

僕たちが「改革」というと、何か新しい、より良い方向へ物事を大きく変えるというポジティブなイメージを持つことが多いかもしれない。しかし、江戸時代の「改革」は、必ずしも「革新」や「進歩」を意味したわけではないんだ。特に享保の改革や寛政の改革が「祖法への復帰」や「原点回帰」をスローガンに掲げたように、むしろ「古き良き時代(とされた過去)への回帰」を目指す、ある種保守的な性格を持っていた場合も多い。これは、改革の指導者たちが、当時の社会変動を「風紀の乱れ」や「秩序の崩壊」と捉え、それを「正しい状態」に戻そうとしたからだ。こうした「改革」観の違いを理解することも、歴史を深く読み解く上で面白い視点だね。

(Click to listen) When we hear "reform," we often associate it with positive connotations of significant change towards something new and better. However, "reforms" during the Edo period did not always signify "innovation" or "progress." As seen in the Kyoho and Kansei Reforms, which aimed for a "return to ancestral laws" or "back to basics," they often had a somewhat conservative character, aspiring to revert to a "golden age of the past." This was because reform leaders perceived contemporary social changes as "moral decay" or "breakdown of order" and sought to restore what they considered the "correct state." Understanding these different perspectives on "reform" is an interesting viewpoint for deeply interpreting history.

This Page's Summary in English (Click to expand and listen to paragraphs)

This page provides a comparative analysis of the "Three Great Reforms" of the Edo period: the Kyōhō (1716-45), Kansei (1787-93), and Tenpō (1841-43) Reforms. These were major attempts by the Shogunate to address accumulating problems such as fiscal deficits, samurai indiscipline, and social unrest.

The Kyōhō Reforms, led by Shogun Tokugawa Yoshimune, aimed at fiscal reconstruction and moral rededication, inspired by the early days of the Shogunate. Key policies included austerity, land reclamation, tax reforms (jōmen system), and codification of laws (Kujikata Osadamegaki). It achieved some fiscal improvement but also increased peasant burdens.

The Kansei Reforms, led by Rōjū Matsudaira Sadanobu, sought to emulate Yoshimune's reforms, responding to the perceived corruption of the Tanuma era and social anxiety after the Tenmei Famine. Policies included strict frugality, encouragement of agriculture (Kyūri Kinōrei), debt cancellation for retainers (Kienrei), and ideological control (Kansei Edict against Heterodox Studies). It brought temporary fiscal relief but was criticized for excessive strictness and stifling economic vitality.

The Tenpō Reforms, led by Rōjū Mizuno Tadakuni, were a response to severe famine, social unrest (e.g., Ōshio Heihachirō's Rebellion), and growing external threats (e.g., the Opium War). It attempted radical measures like dissolving merchant guilds (kabunakama) and land consolidation (Agechirei, which failed), but largely failed due to widespread opposition and economic disruption.

Common goals of these reforms included fiscal rebuilding and restoring samurai discipline, often with an agrarian fundamentalist bias. However, they differed in leadership, specific policies, and outcomes. The reforms were repeated because they failed to address the fundamental structural contradictions of the Bakuhan system, such as the mismatch between the rice-based stipend system and the developing monetary economy. Ultimately, these reforms were largely palliative within the existing framework, unable to cope with profound socio-economic changes, thus foreshadowing the Bakumatsu upheavals.


三大改革の比較を通して、幕府の苦闘と限界が見えてきたかな? 次は、いよいよ幕末の政治的動乱期へと足を踏み入れていくぞ。

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