ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

2-1-5. 幕末の政治危機と諸勢力の動向 - 泰平の終焉、激動の渦中へ

三大改革もむなしく、江戸幕府の屋台骨は静かに、しかし確実に軋み始めていた。そこに襲いかかったのが、西洋列強からの開国要求という未曾有の「外圧」だ。これにより、日本国内の様々な矛盾が一気に噴出し、約260年間続いた「泰平の世」は終わりを告げ、日本は激動の渦中へと放り込まれる。それが「幕末」だ。

一般に幕末とは、1853年のペリー来航から、1867年の大政奉還を経て、翌年からの戊辰戦争、そして1869年の五稜郭の戦いによる旧幕府勢力の終焉までを指すことが多い。このページでは主に、日本の政治体制が根底から覆り、新たな国家体制(明治新政府)が誕生するまでの政治的な動きに焦点を当てる。

なぜ幕末の政治史がこれほどまでに重要視されるのか? それは、この時期の出来事が、日本の近代化の直接的な出発点となり、その後の日本のあり方を決定づけたからだ。幕府、朝廷、有力な藩、そして草莽(そうもう)の志士たち。それぞれの立場、それぞれの思想が複雑に絡み合い、火花を散らした。このダイナミックで、時に悲劇的なドラマを理解することは、現代日本を考える上でも不可欠と言えるだろう。東大入試では、この時期の政治過程の精密な理解、各勢力の理念と行動の分析、そして重要な条約や事件が持つ歴史的意義を問う論述問題が、毎年のように出題されている最重要テーマだ。

1. ペリー来航と開国 1853年~

突如として江戸湾浦賀沖に現れた4隻の黒い蒸気船(黒船)は、日本中に衝撃を与えた。

  • ペリーの強硬な開国要求: アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、大統領国書を幕府に渡し、翌年の再来航を予告して退去。その威圧的な態度は、それまでの異国船とは一線を画すものだった。
  • 幕府の苦悩と対応のまずさ: 老中首座の阿部正弘は、この国難に対し、朝廷に事態を報告し、諸大名にも意見を求めるという異例の対応をとった。これは、幕府単独での決定を避け、責任を分担しようとしたものだが、結果として朝廷の権威を相対的に高め、諸大名の幕政への発言機会を増やすことになり、幕府の権威低下を招いた。
  • 日米和親条約 (1854年): ペリー再来航。幕府はアメリカとの間に和親条約を締結。下田・箱館の2港を開港し、薪水・食料の供給、漂流民の救助、そして最恵国待遇などを認めた。これは限定的な開国であり、まだ通商(貿易)は認められていなかったが、200年以上続いた「鎖国」体制が崩れた画期的な出来事だった。同様の条約をイギリス、ロシア、オランダとも締結。

2. 通商条約締結と安政の大獄 1858年~1860年頃

和親条約に続き、本格的な通商を求める圧力が強まる中、国内では政治抗争が激化する。

  • ハリスと日米修好通商条約交渉: アメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、アロー戦争における清の惨状などを背景に、幕府に通商条約の締結を強硬に迫った。
  • 将軍継嗣問題と勅許問題の紛糾: 13代将軍家定の跡継ぎをめぐり、聡明な一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ、後の徳川慶喜)を推す一橋派(松平慶永、島津斉彬ら)と、血縁の近い紀州藩主徳川慶福(よしとみ、後の家茂)を推す南紀派が対立。同時に、条約調印には天皇の勅許が必要とする意見も強まり、政治状況は混乱。
  • 大老 井伊直弼の強権政治: 南紀派の井伊直弼が大老に就任すると、反対派を抑え、孝明天皇の勅許を得ないまま日米修好通商条約を調印 (1858年)。この条約は、領事裁判権の承認(治外法権)関税自主権の欠如など、日本にとって著しく不利な不平等条約だった。同様の条約をオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも締結(安政の五カ国条約)。
  • 安政の大獄 (1858-59年): 井伊直弼は、条約勅許問題や将軍継嗣問題で反対した一橋派の大名や公家、吉田松陰橋本左内ら尊王攘夷派の志士たちを厳しく処罰した。
  • 桜田門外の変 (1860年): 井伊直弼の強権政治に対する不満が爆発し、水戸・薩摩の浪士らによって江戸城桜田門外で暗殺された。現職の大老が暗殺されるという前代未聞の事件は、幕府の権威を決定的に失墜させた。
東大での着眼点: 安政の五カ国条約の不平等性の具体的な内容とその後の日本への影響。安政の大獄が、その後の尊王攘夷運動や討幕運動にどのような影響を与えたのか。

3. 公武合体と尊王攘夷の交錯 1860年~1860年代半ば

井伊直弼の死後、幕府は権威回復のため朝廷との連携を模索する一方、尊王攘夷運動はますます激化する。

  • 公武合体運動: 老中安藤信正・久世広周らは、朝廷(公)と幕府(武)が融和し、一体となって国難に当たろうとする政策を推進。その象徴として、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)を14代将軍家茂(いえもち)に降嫁させた。しかし、安藤信正は坂下門外の変(1862年)で負傷し失脚。
  • 尊王攘夷運動の高揚: 「天皇を尊び、外国勢力を打ち払う」という思想のもと、過激な攘夷行動が頻発(例:イギリス公使館焼き討ち、生麦事件)。特に長州藩は尊攘派の拠点となった。
  • 雄藩(薩摩藩・長州藩)の台頭:
    • 薩摩藩: 島津久光(藩主の父)が兵を率いて上京し、幕政改革を要求。その結果、幕府は文久の改革 (1862年) を行い、松平慶永(春嶽)を政事総裁職、徳川慶喜を将軍後見職に任命。参勤交代の緩和(3年に1年在府半年など)も実施された。
    • 長州藩: 急進的な尊王攘夷論を掲げ、京都で政治工作を展開。
  • 攘夷の実行と挫折: 幕府は朝廷の圧力もあり1863年5月10日をもって攘夷決行を諸藩に命令。長州藩は下関海峡で外国船を砲撃(下関事件)。しかし、報復として米英仏蘭の四カ国連合艦隊に砲撃され惨敗(1864年)。薩摩藩も生麦事件の報復としてイギリス艦隊に攻撃され大損害(薩英戦争、1863年)。これらの経験から、欧米列強の軍事力の強大さを痛感し、単純な攘夷の不可能を悟る勢力も現れる。
  • 京都政局の混乱:
    • 八月十八日の政変 (1863年): 会津藩(京都守護職松平容保)・薩摩藩などの公武合体派が、長州藩を中心とする尊攘急進派を京都から追放。
    • 禁門の変(蛤御門の変) (1864年): 失地回復を目指した長州藩が武力で京都に攻め上るが、会津・薩摩藩などに敗北。これを機に幕府は第一次長州征討を行う。
幕末主要政治勢力 相関図 (イメージ) 幕末の主要政治勢力 幕府 (譜代・幕臣) 朝廷 (天皇・公家) 雄藩 (薩摩・長州・土佐等) 志士 (下級武士・浪人等) これらの勢力が、尊王攘夷、公武合体、開国、討幕など様々な主張のもとで複雑に連携・対立した。

4. 討幕運動の展開と幕府の終焉 1860年代後半

攘夷の挫折を経て、一部の雄藩や志士たちは、外国の脅威に対抗するためにはまず国内の政治体制を変革する必要があると考え、討幕へと傾斜していく。

  • 長州征討(第一次・第二次): 禁門の変の責任を問い、幕府は長州藩への攻撃(第一次長州征討、1864年)を行う。長州藩は一時恭順するが、高杉晋作ら討幕派が藩の実権を握ると再び幕府に反抗。幕府は第二次長州征討(1866年)を行うが、諸藩の非協力や幕府軍の士気の低さなどから惨敗。これは幕府の軍事的無力さを全国に露呈する結果となった。
  • 薩長同盟 (1866年): 土佐藩出身の坂本龍馬中岡慎太郎らの仲介により、犬猿の仲とされた薩摩藩(西郷隆盛大久保利通ら)と長州藩(木戸孝允ら)が秘密裏に軍事同盟を締結。これが討幕運動の強力な核となる。
  • 15代将軍 徳川慶喜の登場と最後の幕政改革: 難局の中、徳川慶喜が将軍に就任(1866年末)。フランスの援助のもと軍制改革(ロッシュの献策)、会計制度の近代化など、最後の幕政改革を試みる。
  • 大政奉還 (1867年10月): 薩長両藩が武力討幕の準備を進める中、土佐藩(藩主山内豊信後藤象二郎ら)は、坂本龍馬の船中八策を基に、徳川慶喜に政権の朝廷への返上を建白。慶喜はこれを受け入れ、政権を朝廷に返上。これにより、形式的には260年以上続いた江戸幕府は終焉を迎えた。慶喜の狙いは、なおも新政府内で主導権を握ることにあったとされる。
  • 王政復古の大号令 (1867年12月) と小御所会議: 薩長両藩を中心とする討幕派(岩倉具視ら一部公家も連携)は、大政奉還だけでは不十分とし、クーデター的に天皇中心の新政府樹立を宣言(王政復古の大号令)。同日夜の小御所会議で、徳川慶喜に対し辞官納地(官職辞任と領地返上)を決定。これにより慶喜の政治的影響力は完全に排除された。
  • 戊辰戦争へ (1868年~): この決定に不満を持つ旧幕府勢力と新政府軍との間で内戦(鳥羽・伏見の戦いから始まる戊辰戦争)が勃発する。
1853年
ペリー来航
1854年
日米和親条約
1858年
日米修好通商条約 / 安政の大獄 開始
1860年
桜田門外の変 (井伊直弼暗殺)
1862年
文久の改革 / 生麦事件
1863年
薩英戦争 / 八月十八日の政変
1864年
禁門の変 / 第一次長州征討
1866年
薩長同盟 / 第二次長州征討
1867年
大政奉還 / 王政復古の大号令
1868年
鳥羽・伏見の戦い (戊辰戦争開始)

5. 幕末政治を動かした主要勢力と思想

幕末の政治は、多様な立場の人々が、様々な思想的影響を受けながら行動した結果、複雑に展開した。

  • 幕府 (譜代大名・幕臣): 基本的には体制維持を目指したが、開国派と攘夷派、漸進的改革派と保守派など内部対立も。
  • 朝廷 (天皇・公家): 当初は攘夷的傾向が強かったが、次第に政治の中心として担ぎ上げられる。公家の中にも様々な思惑があった。
  • 雄藩 (薩摩・長州・土佐・肥前など): 各藩の利益や藩政改革の経験を背景に、国政への発言力を強めた。開明的な思想を持つ藩主や藩士が活躍。
  • 志士 (下級武士・浪人・豪農商出身者など): 身分にとらわれず、強い危機感と理想を掲げて行動。過激な行動に走る者も多かったが、新しい時代を切り開く原動力ともなった。
  • 思想の潮流:
    • 尊王論: 天皇を絶対の権威とする思想。水戸学などが影響。
    • 攘夷論: 外国勢力を打ち払うべしとする思想。当初は広く支持された。
    • 開国論: 外国との通商や交流を積極的に進めるべきとする思想。
    • 公議政体論: 将軍や有力諸侯の合議によって国政を運営すべきとする思想。土佐藩などが主張。
    • 討幕論: 幕府を武力で倒し、新たな政治体制を樹立すべきとする思想。薩長などが主導。
    これらの思想は固定的なものではなく、状況の変化や個人の経験によって変化し、また複雑に結びついた(例:尊王攘夷→開国討幕へ)。

幕末政治のダイナミズムと歴史的意義:新時代への胎動

ペリー来航からわずか15年足らずの間に、日本の政治体制は劇的な変貌を遂げた。この短期間にこれほど大きな変化が起こった要因は何だったのだろうか?

幕末の政治的変動は、単に一つの政権が倒れたというだけでなく、武家支配の終焉と、中央集権的な近代国民国家(明治国家)への道を開いたという点で、極めて大きな歴史的意義を持つ。また、この過程で、それまで政治とは無縁だった様々な階層の人々が「国事」に目覚め、政治参加への意識を高めていったことも、特筆すべき点だろう。このエネルギーが、明治以降の日本の急速な近代化を支える一つの力となったんだ。

【学術的豆知識】「公議」という言葉の魅力と限界

幕末には「公議(こうぎ)」とか「公論(こうろん)」という言葉が、様々な立場の政治勢力によって頻繁に使われたんだ。「みんなで話し合って国の方針を決めよう」という、一見すると非常に民主的で魅力的な響きを持つ言葉だね。例えば、土佐藩の公議政体論は、大政奉還後の政治体制として、諸侯会議のようなものを想定していた。しかし、実際に「公議」を構成する「みんな」とは誰を指すのか?(有力大名だけか?下級武士も含むのか?庶民は?)また、どのように意見を集約し、最終的な意思決定を行うのか?といった具体的な方法論は、各論者によって異なり、また曖昧な部分も多かった。この「公議」という理念は、明治初期の五箇条の御誓文にも「広く会議を興し万機公論に決すべし」として受け継がれるが、その理想と現実のギャップは、その後も日本の政治課題として残り続けることになるんだ。

(Click to listen) In the Bakumatsu period, terms like "kōgi" (public deliberation) and "kōron" (public opinion/discourse) were frequently used by various political factions. They sound appealingly democratic, suggesting "let's discuss and decide national policy together." For example, Tosa Domain's "kōgi seitai ron" envisioned a council of feudal lords as the political system after the Taisē Hōkan. However, who exactly constituted the "public" in "kōgi" (only powerful daimyo? lower samurai? commoners?) and how opinions would be aggregated and final decisions made, varied among proponents and often remained vague. This ideal of "kōgi" was inherited in the Meiji era's Five Charter Oaths ("Deliberative assemblies shall be widely established and all matters decided by public discussion"), but the gap between this ideal and reality would continue as a political challenge for Japan.

This Page's Summary in English (Click to expand and listen to paragraphs)

This page details the political crisis and the dynamics of various factions during the Bakumatsu period (roughly 1853-1868), a pivotal era marking the end of the Edo Shogunate and Japan's transition towards a modern state. This period is critical for understanding Japan's modernization and is a frequent topic in university entrance exams.

The arrival of Commodore Perry's "Black Ships" in 1853 shattered Japan's isolationist policy. The Shogunate, under pressure, signed the Treaty of Kanagawa (1854), a limited opening, followed by the U.S.-Japan Treaty of Amity and Commerce (1858), an unequal treaty that further eroded shogunal authority. Domestic political strife intensified with the Shogun succession dispute and the issue of imperial sanction for treaties, leading to Grand Elder Ii Naosuke's crackdown on opponents (Ansei Purge) and his assassination (Sakuradamon Incident, 1860), which fatally weakened the Shogunate.

The 1860s saw a complex interplay of the Kōbu Gattai (Union of Court and Shogunate) movement and the Sonnō Jōi (Revere the Emperor, Expel the Barbarians) movement. Powerful southwestern domains like Satsuma and Chōshū rose to prominence. Attempts at military expulsion of foreigners (e.g., Chōshū's attack at Shimonoseki, Anglo-Satsuma War) failed, leading some to realize the futility of simplistic xenophobia and to focus on internal political reform, often leaning towards overthrowing the Shogunate (Tōbaku).

The Satsuma-Chōshū Alliance (Satchō Dōmei, 1866) became the core of the Tōbaku movement. In 1867, Shogun Tokugawa Yoshinobu formally returned political authority to the Emperor (Taisē Hōkan). However, pro-imperial, anti-shogunate forces staged a coup d'état (Ōsei Fukko no Daigōrei), declaring the restoration of imperial rule and stripping Yoshinobu of power, which led to the Boshin War (1868-69) and the establishment of the Meiji government. Key factions included the Shogunate, the Imperial Court, powerful domains, and individual "shishi" (activists), driven by diverse and evolving ideologies.

The Bakumatsu period's rapid political changes were driven by internal contradictions, external pressures from Western powers, and the actions of key individuals. It marked the end of samurai rule and paved the way for a centralized modern nation-state, fostering a new level of political consciousness among various social strata.


これで「政治編」の探求は一区切りだ。幕府の成立から、その統治システム、そして終焉に至るまでの大きな流れが見えてきただろうか? 次は、人々の生活の土台であり、社会を動かす原動力でもある「経済」の世界へと足を踏み入れてみよう!

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