4. 海を越えたつながり~戦国時代の日本と世界~
戦国時代の日本は、島国だからといって世界から孤立していたわけじゃないんだ。実は、様々な形で海を越えたつながりを持っていて、海外からの影響が日本の歴史を大きく動かすこともあったんだよ。
鉄砲やキリスト教の伝来、ヨーロッパ諸国との「南蛮貿易(なんばんぼうえき)」、そして日本からも倭寇(わこう)や朝鮮出兵といった動きがあった。このページでは、そんな戦国時代の日本の国際関係と、その頃、世界の他の国々ではどんなことが起きていたのかを一緒に探っていこう!
東アジアの隣国たちとの関係
まずは、昔からつながりの深い中国や朝鮮半島との関係を見てみよう。
- 中国(明 みん)との関係:室町幕府は明と公式な貿易(勘合貿易・かんごうぼうえき)をしていたけど、戦国時代になると幕府の力が弱まって衰退。でも、西日本の大名や商人が個人的に貿易を続けることもあった。
- 倭寇(わこう):日本の武士や商人、漁民などが、中国や朝鮮の沿岸部で海賊行為や密貿易を行うこともあった。前期の倭寇は日本人が中心だったけど、後期になると中国人も多く加わったと言われているよ。
- 朝鮮(李氏朝鮮 りしちょうせん)との関係:対馬(つしま)の宗(そう)氏という大名を通じて、貿易や外交的なやり取りが続けられていた。
ヨーロッパ人の到来! 鉄砲伝来 (1543年)
1543年、日本の歴史を大きく変える出来事が起こる! ポルトガル人を乗せた船が、種子島(たねがしま、今の鹿児島県)に漂着し、そこで初めて日本に鉄砲が伝わったんだ。
当時の日本の職人たちの技術はものすごく高くて、あっという間に鉄砲の国内生産に成功!堺(大阪府)や国友(滋賀県)、根来(和歌山県)などが有名な鉄砲の産地になった。鉄砲の登場は、それまでの戦のやり方をガラリと変えてしまったんだ。織田信長が長篠の戦いで鉄砲隊を効果的に使ったのは有名な話だね。
鉄砲伝来ルート (イメージ)
新しい教え キリスト教の伝来 (1549年)
鉄砲伝来から数年後の1549年、イエズス会というカトリックの修道会の宣教師、フランシスコ・ザビエルが鹿児島にやってきて、日本に初めてキリスト教を伝えたんだ。
ザビエルたちは、各地の大名に会って布教の許可を求め、九州や近畿地方で信者を増やしていった。中には、大友宗麟や大村純忠(すみただ)、有馬晴信(ありまはるのぶ)のように、自らキリスト教を信仰する「キリシタン大名」も現れたんだ。
キリスト教は、当時の日本の仏教勢力に対抗する新しい価値観として、また、南蛮貿易を進めるための手段として、一部の大名に受け入れられた。宣教師たちは、学校や病院(のような施設)を作ったり、西洋の文化を伝えたりもしたよ。
南蛮貿易で日本と世界がつながる!
ポルトガル人やスペイン人との貿易は「南蛮貿易(なんばんぼうえき)」と呼ばれて、とっても盛んになった。長崎や平戸(長崎県)、府内(大分県)などが貿易港として栄えたよ。
- 日本への輸入品:
- 中国産の生糸(きいと)や絹織物、鉄砲や火薬、ガラス製品、時計、ワイン、砂糖、香辛料など、当時の日本では珍しいものがたくさん入ってきた。
- 日本からの輸出品:
- 主に銀(石見銀山などが有名だった)、その他にも硫黄や刀剣、漆器などの工芸品が輸出された。
この貿易を通じて、日本にはヨーロッパの文化(南蛮文化)もたくさん入ってきた。カステラや金平糖(こんぺいとう)といったお菓子、パンやタバコといった言葉、天文学や医学、印刷技術なども、この頃に伝わったものが多いんだよ。
クイズ!これは輸入品?輸出品?
「生糸」は戦国時代の南蛮貿易で、主に日本に輸入されたものでしょうか、それとも日本から輸出されたものでしょうか?
その頃、世界では何が? ~大航海時代~
日本で戦国大名たちが争っていた頃、世界の他の地域、特にヨーロッパは「大航海時代(だいこうかいじだい)」の真っ只中だったんだ!
- ヨーロッパの動き:ポルトガルやスペインといった国々が、新しい航路を求めて、船で世界中へ探検に出かけていた。コロンブスがアメリカ大陸に到達したり、マゼラン一行が世界一周を達成したりしたのもこの頃。彼らはアジアやアメリカ大陸に次々と進出し、植民地を作ったり、貿易を始めたりしたんだ。
- 宗教改革:ヨーロッパでは、ルターなどがカトリック教会を批判して「宗教改革(しゅうきょうかいかく)」が起こり、キリスト教がカトリックとプロテスタントに分かれて争うようになった。ザビエルたちイエズス会が海外布教に熱心だったのも、この動きと関係があるんだ。
- オスマン帝国の拡大:西アジアから東ヨーロッパにかけて、強大なオスマン帝国が勢力を広げていた。
- 明(中国)の状況:国内では比較的安定していたけど、北からのモンゴルの侵入や、沿岸部での倭寇の活動に悩まされていた。
大航海時代の主な航路 (超ざっくりイメージ)
豊臣秀吉の野望と朝鮮出兵 (文禄・慶長の役)
天下を統一した豊臣秀吉は、次なる野望として中国(明)の征服を考えた。その足がかりとして、まず朝鮮に対して、明へ攻め入るための道案内と服属を要求したんだ。しかし、朝鮮はこれを拒否。
怒った秀吉は、1592年(文禄元年)と1597年(慶長2年)の二度にわたって、数十万の大軍を朝鮮半島へ送り込んだ。これが「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」、朝鮮では「壬辰・丁酉倭乱(じんしん・ていゆうわらん)」と呼ばれる戦いだ。
日本の武士たちは緒戦では優勢だったけど、朝鮮の民衆の抵抗や、李舜臣(りしゅんしん)率いる朝鮮水軍の活躍、そして明からの援軍もあって、戦いは長期化し泥沼化。日本国内の大名たちは大きな負担を強いられ、多くの兵士が命を落とした。朝鮮半島も戦場となって甚大な被害を受けたんだ。
結局、この出兵は秀吉の死(1598年)によって中止され、日本軍は撤退。大きな成果は得られず、日本と朝鮮の関係は悪化してしまった。ただ、この時、朝鮮から多くの陶工(焼き物職人)が日本へ連れてこられ、彼らの技術が日本の有田焼や薩摩焼などの発展に大きな影響を与えたという側面もあるんだ。
江戸時代へと続く道 - 朱印船貿易
秀吉の時代から徳川家康の時代にかけて、「朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)」という形での海外貿易も行われたよ。これは、幕府から「朱印状」という許可証をもらった船だけが行える貿易で、東南アジア各地へ日本の商船が渡り、各地に「日本人町(にほんじんまち)」ができるほどだったんだ。
しかし、江戸幕府は次第にキリスト教を禁止し、海外との交流を制限していく「鎖国(さこく)」へと向かっていくことになる。その話はまた別の機会にしようね。
Mamechishiki Corner (Bean Knowledge!): Nanban Screens
"Nanban byōbu" (南蛮屏風), or Southern Barbarian screens, are a fascinating type of Japanese folding screen painting that emerged in the late 16th and early 17th centuries. These screens vividly depict the arrival of Portuguese and other European ships and traders in Japan, showcasing their exotic attire, goods, and customs. They often portray the bustling activity of port towns engaged in Nanban trade, with detailed scenes of the "black ships," European merchants, missionaries, and even animals like elephants and Arabian horses that were new to Japan. These screens are valuable historical documents offering a Japanese perspective on these early encounters with the West, as well as being beautiful works of art.
(意訳:「南蛮屏風(なんばんびょうぶ)」は、16世紀後半から17世紀初頭にかけて現れた、日本の屏風絵の魅力的な一種類です。これらの屏風は、ポルトガル人や他のヨーロッパの船や商人が日本に到着する様子を鮮やかに描き、彼らの異国風の服装、品物、習慣を紹介しています。それらはしばしば、南蛮貿易に従事する港町の賑やかな活動を描写し、「黒船」、ヨーロッパの商人、宣教師、さらには日本にとって新しかった象やアラビア馬のような動物たちの詳細な場面が含まれています。これらの屏風は、西洋とのこれらの初期の出会いに関する日本の視点を提供する貴重な歴史的資料であると同時に、美しい芸術作品でもあります。)