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3.5 【僧侶】心の支え、時には戦力!お坊さんとお寺の役割

僧侶のイメージ

戦乱が絶えなかった戦国時代、人々の心の拠り所となったのが、お寺とそこに仕える「僧侶(そうりょ)」、つまりお坊さんたちだった。仏の教えを説き、人々の悩みを聞くだけでなく、学問の中心地であったり、時には自ら武器を取って戦う「僧兵(そうへい)」として、大きな力を持つこともあったんだ。

このページでは、そんな戦国時代のお坊さんやお寺が、社会の中でどんな役割を果たし、どんな影響力を持っていたのか、その多様な姿に迫ってみよう!

お坊さんってどんな人たち? ~役割と宗派~

戦国時代のお坊さんの役割は、とっても幅広かったんだ。

  • 心のケアと儀式:戦や災害で苦しむ人々の悩みを聞き、仏様の教えを説いて心の安らぎを与えた。また、お葬式や法事といった大切な儀式を取り仕切った。
  • 学問と教育の担い手:お寺は学問の中心地でもあり、子供たちに読み書き算盤を教える「寺子屋(てらこや)」のような役割も果たしていた。学識豊かなお坊さん(学僧)もたくさんいたよ。
  • 外交官や軍師として:高い教養や弁舌(話術)に優れたお坊さんは、大名に仕えて外交交渉にあたったり、戦の作戦を考える軍師として活躍することもあった。有名なところでは、毛利元就に仕えた安国寺恵瓊(あんこくじえけい)や、今川義元・武田信玄に仕えた太原雪斎(たいげんせっさい)などがいるよ。

当時、日本にはいろんな仏教の宗派があった。主なものをいくつか紹介するね。

  • 浄土宗(じょうどしゅう)・浄土真宗(じょうどしんしゅう、一向宗とも):「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えれば誰でも極楽浄土へ行けると説き、民衆に広く信仰された。特に浄土真宗の力は強大だった。
  • 禅宗(ぜんしゅう、臨済宗・曹洞宗など):座禅を組んで悟りを開くことを目指す宗派。武士階級に好まれた。
  • 日蓮宗(にちれんしゅう、法華宗とも):「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」という題目を唱える。熱心な信者が多く、時には団結して力を持つことも。
  • 天台宗(てんだいしゅう)・真言宗(しんごんしゅう):古くから続く有力な宗派。比叡山延暦寺(天台宗)や高野山金剛峯寺(真言宗)は大きな勢力を持っていた。
様々な宗派の僧侶 (イメージSVG)
宗派によって袈裟の色なども違うよ 禅宗など 浄土真宗など 高位の僧など 山伏など

(↑これはすごく簡単なイメージで、実際の服装はもっと複雑で多様だよ!)

お寺はどんな場所だった? ~社会の中の役割~

戦国時代のお寺は、ただお祈りをする場所というだけではなかった。社会の中でいろんな役割を果たしていたんだ。

宗教施設として

もちろん、仏様を祀り、法事や葬儀を行う宗教的な中心地だった。お坊さんたちの修行の場でもあったよ。

学びの場として

文字の読み書きや学問を教える、今でいう学校のような役割も担っていた。「寺子屋」の原型だね。

避難所として

戦が始まると、多くの村人や町人がお寺に逃げ込んできた。お寺の境内は、一種の安全地帯(サンクチュアリ)と考えられていたんだ。

交流の場として

旅人が泊まる宿になったり、村の寄り合いが開かれたり、情報交換の場所になったりもした。

経済拠点として

大きなお寺は、「寺社領(じしゃりょう)」と呼ばれる広大な土地を持っていて、そこから上がる年貢などで運営されていた。中には、お金を貸し付ける金融業のようなことを行うお寺もあったんだ。

医療・福祉の場として

薬草の知識を持ったお坊さんが病人の治療をしたり、お寺が貧しい人々や孤児を助けたりすることもあったよ。

お寺が戦う!? ~僧兵と一向一揆~

戦国時代のお寺の中には、自分たちの領地や権利を守るために、自ら武器を取って戦うところもあったんだ!

僧兵(そうへい)とは?
お寺に所属し、武装した僧侶たちのこと。剃髪(ていはつ、頭を剃ること)はしているけど、見た目は武士と変わらないような屈強な者も多かった。薙刀(なぎなた)や弓矢、鉄砲なども使って戦ったんだ。

特に大きな力を持っていたのは、京都の近くにある比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)(天台宗)や、奈良の興福寺(こうふくじ)(法相宗)、紀伊国(和歌山県)の根来寺(ねごろでら)(新義真言宗、鉄砲集団としても有名)などだ。彼らは「寺社勢力(じしゃせいりょく)」と呼ばれ、時には戦国大名と肩を並べるほどの武力を持っていた。

そして、戦国時代で最も恐れられた宗教勢力の一つが、「一向一揆(いっこういっき)」だよ。これは、浄土真宗(一向宗)の熱心な信者(門徒・もんと)たちが、自分たちの信仰を守るため、そして領主の圧政に抵抗するために団結して起こした一揆なんだ。本願寺(ほんがんじ)というお寺を中心とする一向宗の勢力は、加賀国(石川県)を百年近くも支配したり、織田信長と10年にもわたって「石山合戦(いしやまかっせん)」という壮絶な戦いを繰り広げたりしたんだ。

石山合戦 本願寺籠城のイメージ
石山合戦 (1570-1580年) 石山本願寺(鉄壁の守り!) 織田軍 織田軍 織田軍 織田軍 織田軍 信長、大苦戦!

戦国大名と仏教、そしてキリスト教

戦国大名たちにとって、仏教勢力は無視できない存在だった。ある大名は、自分の領地を治めやすくするために特定の宗派を保護したり、お寺を建てたりした。でも、あまりにも力が強くなりすぎたお寺や、自分に従わない宗派に対しては、容赦なく弾圧することもあったんだ。

織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにした事件や、一向一揆と激しく戦ったことは有名だね。これは、信長が天下統一を進める上で、自分に従わない宗教勢力を許さなかったからだと言われている。

また、この時代にはヨーロッパからキリスト教も伝わってきた。新しい教えであるキリスト教は、一部の大名や民衆に受け入れられたけど、古くから日本にある仏教勢力にとっては、自分たちの教えを脅かす存在と映ることもあって、仏教徒とキリスト教徒の間で対立が起こることもあったんだ。

戦国時代の終わりと、お寺のその後

豊臣秀吉や徳川家康によって天下が統一され、平和な江戸時代が訪れると、お寺のあり方も大きく変わっていった。幕府は、お寺を国の支配体制の中に組み込んでいくんだ(本末制度や寺請制度)。これによって、お寺は人々の戸籍を管理したり、幕府の政策を民衆に伝えたりする役割も担うようになった。

そして、僧兵のような武装したお坊さんはいなくなり、お寺は主に宗教的な活動や学問、教育の場として、人々の生活に深く関わっていくことになるんだよ。

Mamechishiki Corner (Bean Knowledge!): The Saying "Shogyō Mujō"

A fundamental concept in Buddhism that deeply permeated Japanese culture, including during the Sengoku period, is "shogyō mujō" (諸行無常). It translates to "all conditioned things are impermanent" or "all worldly things are transitory." This teaching emphasizes that everything in the world is constantly changing and nothing lasts forever. In an era of constant warfare, shifting alliances, and the rise and fall of powerful clans, this Buddhist understanding of impermanence likely offered a way for people to comprehend and cope with the uncertainties and suffering around them. It's a theme often found in literature and art from this period, such as "The Tale of the Heike."

(意訳:戦国時代を含む日本の文化に深く浸透した仏教の基本的な概念の一つに「諸行無常(しょぎょうむじょう)」があります。これは「すべての条件付けられたものは無常である」または「すべての世俗的なものは移り変わりやすい」と訳されます。この教えは、世の中のすべてのものは絶えず変化し、永遠に続くものはないことを強調しています。絶え間ない戦争、同盟の変化、そして有力な一族の盛衰の時代において、この仏教的な無常観は、人々が周囲の不確かさや苦しみを理解し、それに対処する方法を提供した可能性があります。これは「平家物語」など、この時代の文学や芸術によく見られるテーマです。)

English Summary of This Page

This page explores the multifaceted roles of Buddhist monks (sōryo) and temples (tera) during Japan's Sengoku period. Far from being solely religious institutions, they served as spiritual sanctuaries, centers of learning, and at times, formidable military powers that significantly influenced the era.

Monks provided spiritual guidance and comfort to a populace weary from constant warfare, conducted funerals and memorial services, and often served as educators, running "terakoya" (temple schools). Learned monks also acted as diplomats and military strategists for daimyō, such as Ankokuji Ekei and Taigen Sessai. Major Buddhist sects like Jōdo-shū, Jōdo Shinshū (Ikkō-shū), Zen, Nichiren-shū, Tendai, and Shingon each had their distinct practices and varying degrees of influence.

Temples functioned not only as places of worship and monastic training but also as shelters for refugees during conflicts, community gathering spots, and even economic entities managing vast estates and engaging in financial activities. Some monks also provided medical care. Furthermore, prominent temples like Enryaku-ji, Kōfuku-ji, and Negoro-ji maintained their own armies of "sōhei" (warrior monks). The Ikkō-ikki, leagues of Jōdo Shinshū followers, were particularly powerful, controlling entire provinces and famously battling Oda Nobunaga for a decade in the Ishiyama Hongan-ji War.

Daimyō had complex relationships with Buddhist institutions, sometimes patronizing them for legitimacy and control, other times suppressing them if their power grew too strong, as seen in Nobunaga's destruction of Enryaku-ji. The arrival of Christianity also created new dynamics, sometimes leading to conflict with established Buddhist sects. With the end of the Sengoku period and the establishment of the Tokugawa Shogunate, temples were integrated into the state's control system (e.g., Terauke system), their military power was dismantled, and monks largely focused on religious and scholarly pursuits.