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没落する権威 室町幕府と足利将軍家 (あしかがしょうぐんけ) の視点

これまで、たくさんの戦国大名たちの物語を見てきたけど、今回はちょっと視点を変えてみよう。戦国時代の日本には、名目上はまだ全国の支配者であるはずの「室町幕府(むろまちばくふ)」と、そのトップである「足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)」が存在していたんだ。

でも、その力は日に日に衰え、戦国大名たちにいいように利用されたり、時には都を追われたり…。かつての栄光はどこへやら。それでも、「将軍」という肩書きは、戦国大名たちにとって無視できない「権威」であり続けたんだ。今回は、そんな室町幕府と足利将軍家がたどった、悲しくも複雑な運命を見ていくよ。

室町幕府 失われた力、残された権威…

(↑傾きかけた室町幕府のイメージだよ…)

足利将軍家の栄光と没落

  • 室町幕府の始まりと全盛期(ちょっとだけ復習)

    室町幕府は、1338年に足利尊氏(あしかがたかうじ)が開いた武家政権。特に三代将軍の足利義満(よしみつ)の時代には、全国を支配し、中国(明)との貿易(勘合貿易)も行って、幕府は大きな力を持っていたんだ。京都の金閣寺を建てたのも義満だよ。

  • 応仁の乱 - 将軍の力が地に落ちる (1467年~1477年)

    しかし、八代将軍・足利義政(よしまさ)の時代になると、将軍の跡継ぎ問題や、有力な守護大名たちの対立が激化。ついに1467年、京都を舞台にした「応仁の乱(おうにんのらん)」という大きな内乱が始まってしまうんだ。この戦いは11年も続き、美しい京都の町は焼け野原に…。

    この応仁の乱によって、室町幕府の力は決定的に弱まり、将軍の言うことを聞かない戦国大名たちが全国各地で現れる「戦国時代」が本格的に始まるんだ。義政自身は、戦乱をよそに東山文化(銀閣寺や水墨画、茶の湯など)を発展させた文化人でもあったけどね。

    応仁の乱の影響
    ・室町幕府の権威が大きく低下
    ・京都の荒廃
    ・守護大名の没落と国人の台頭
    ・戦国時代の本格的な始まり
  • 名ばかりの将軍たち - 戦国大名に翻弄される日々

    応仁の乱の後、足利将軍は、力のある守護大名や、その家来である管領(かんれい)たちの「あやつり人形」のような存在になってしまうことが多くなった。

    • 十代将軍 足利義稙(よしたね): 大内氏などの支援で将軍になったり、追放されたりを繰り返した流浪の将軍。
    • 十二代将軍 足利義晴(よしはる): 細川氏や三好氏といった実力者たちに政治の実権を握られ、何度も京都を追われた。

    将軍は京都にいても、実質的な力はほとんどなく、ただ「将軍」という名前だけが残っているような状態だったんだ。

  • 剣豪将軍・義輝の奮闘と非業の死 (~1565年)

    そんな中、十三代将軍となった足利義輝(よしてる)は、なんとか将軍の権威を取り戻そうと奮闘したんだ。彼は剣術の達人で「剣豪将軍」とも呼ばれ、自ら各地の大名たちの争いを仲裁したり、家臣を育てたりした。

    しかし、当時畿内で大きな力を持っていた三好長慶(みよしながよし)が亡くなると、その家臣だった三好三人衆や松永久秀(まつながひさひで)らが、義輝を邪魔者として襲撃。1565年、義輝は二条御所で最期まで奮戦したけど、多勢に無勢で討ち死にしてしまったんだ(永禄の変)。将軍権力復活の夢は、ここで断たれてしまう。

    永禄の変 足利義輝最後の戦い イメージ
    永禄の変 (1565年) 二条御所 義輝 三好・松永軍 三好・松永軍 剣豪将軍、奮戦するも…
  • 最後の将軍・義昭と織田信長、そして幕府の終焉 (1568年~1573年)

    義輝の弟である足利義昭(よしあき)は、兄の無念を晴らすため、各地の有力大名に助けを求めた。そして、当時勢力を伸ばしていた尾張の織田信長の力を借りて京都へ上り、1568年に十五代将軍となったんだ。

    最初は信長と協力関係にあった義昭だけど、次第に信長が幕府の政治を思うように動かそうとすることに不満を持つようになる。そして、ついに義昭は、武田信玄や浅井長政、朝倉義景といった大名たちに声をかけ、「信長包囲網」を作って信長を倒そうと画策したんだ。

    しかし、この包囲網も信長の力によって打ち破られてしまう。そして1573年、怒った信長によって義昭は京都から追放され、ここに約240年続いた室町幕府は事実上滅亡してしまったんだ…。義昭はその後も、毛利氏などを頼って各地を転々とし、反信長・反秀吉の活動を続けたけど、将軍として京都に戻ることは二度となかった。

  • なぜ室町幕府は衰退したのか?

    あれほど力を持っていた室町幕府が、なぜこんなにも弱くなってしまったんだろう?

    • 守護大名の力の増大: 各地の守護大名が力をつけ、幕府の言うことを聞かなくなった。
    • 幕府内部の争い: 将軍の跡継ぎ問題や、管領などの有力な役職をめぐる争いが絶えなかった。
    • 応仁の乱の打撃: 京都が焼け野原になり、幕府の権威も財政もボロボロになった。
    • 下剋上の風潮: 実力のある者が身分に関係なくのし上がる時代になり、古い権威が通用しなくなった。

    これらの要因が複雑に絡み合って、室町幕府は衰退していったんだね。でも、将軍という「権威」だけは、戦国大名たちにとっても利用価値があったから、完全に消滅するまでには時間がかかったんだ。

室町幕府をめぐる主な人々 (一部だよ!)

  • 足利義満 (あしかが よしみつ): 三代将軍。室町幕府の全盛期を築いた。金閣寺を建立。
  • 足利義政 (あしかが よしまさ): 八代将軍。応仁の乱の時の将軍。東山文化を発展させた。銀閣寺を建立。
  • 足利義輝 (あしかが よしてる): 十三代将軍。「剣豪将軍」。将軍権力の回復を目指すが、永禄の変で非業の死。
  • 足利義昭 (あしかが よしあき): 十五代将軍。室町幕府最後の将軍。織田信長と対立し追放された。
  • 細川氏・三好氏・松永氏など: 時には将軍を支え、時には将軍を操り、時には将軍に敵対した、畿内の有力な武将たち。
Mamechishiki Corner (Bean Knowledge!): Higashiyama Culture

Despite the political turmoil of his reign and the devastating Ōnin War, the 8th shōgun, Ashikaga Yoshimasa, was a great patron of the arts, leading to the flourishing of what is known as Higashiyama Culture (東山文化). This culture, centered around Yoshimasa's retirement villa, the Ginkaku-ji (Silver Pavilion), was characterized by refinement, simplicity, and a blend of courtly and Zen Buddhist aesthetics. Key elements include the tea ceremony (sadō), flower arrangement (ikebana), ink wash painting (suibokuga), Noh drama, and Japanese garden design, particularly the karesansui (dry landscape) rock gardens. Many of these art forms continue to define Japanese traditional culture today.

(意訳:八代将軍・足利義政の治世は政治的混乱と壊滅的な応仁の乱に見舞われましたが、彼は芸術の偉大な後援者であり、東山文化(ひがしやまぶんか)として知られる文化の隆盛をもたらしました。この文化は、義政の隠居用の別荘である銀閣寺(銀閣)を中心に展開され、洗練、簡素さ、そして宮廷風と禅宗の美学の融合が特徴でした。主要な要素には、茶道、華道、水墨画、能楽、そして特に枯山水の石庭などの日本庭園デザインが含まれます。これらの芸術形式の多くは、今日でも日本の伝統文化を定義し続けています。)

English Summary of This Page

This page examines the Sengoku period from the perspective of the declining Ashikaga Shogunate (Muromachi Bakufu). Once the rulers of Japan, the Ashikaga shōguns saw their power erode progressively, becoming largely ceremonial figures manipulated by powerful daimyō. However, the title of "shōgun" itself retained a certain prestige and influence throughout this tumultuous era.

The Ashikaga Shogunate reached its zenith under the third shōgun, Ashikaga Yoshimitsu. However, the Ōnin War (1467-1477), which erupted during the reign of the eighth shōgun, Ashikaga Yoshimasa, over succession disputes and daimyō rivalries, devastated Kyoto and critically weakened the shogunate's authority, marking the true beginning of the Warring States period. Despite the chaos, Yoshimasa was a patron of the arts, fostering Higashiyama Culture.

In the subsequent decades, shōguns often became puppets of powerful regional lords like the Hosokawa or Miyoshi clans. The thirteenth shōgun, Ashikaga Yoshiteru, known as the "Kengō Shōgun" (Sword Master Shōgun), attempted to restore shogunal authority but was assassinated in the Eiroku Incident (1565) by retainers of the Miyoshi clan.

The fifteenth and final shōgun, Ashikaga Yoshiaki, was installed by Oda Nobunaga in 1568. Initially allied, they soon fell into conflict as Nobunaga increasingly disregarded shogunal authority. Yoshiaki attempted to form an anti-Nobunaga coalition, but it failed. In 1573, Nobunaga expelled Yoshiaki from Kyoto, effectively ending the Ashikaga Shogunate, though Yoshiaki continued to resist from exile. The decline of the shogunate was due to various factors, including the rise of powerful daimyō, internal power struggles, the Ōnin War's impact, and the prevailing trend of "gekokujō" (the low overthrowing the high).