九州の国際派! 大友家 (おおともけ) の物語
今回の主役は、九州の北部、豊後国(ぶんごのくに、今の大分県あたり)を本拠地とし、戦国時代にキリスト教文化を花開かせた国際派の大名、大友宗麟(おおともそうりん)と、彼が率いた大友家だよ!
大友家は、最盛期には九州の6つの国を支配するほどの勢力を誇り、「六カ国太守(ろっかこくたいしゅ)」と呼ばれたんだ。南蛮貿易を積極的に行い、ヨーロッパの文化や技術を取り入れたことでも知られているよ。しかし、その栄華の陰には、激しい戦いや、宗教をめぐる葛藤もあったんだ。さあ、大友家の栄光と波乱の歴史を見ていこう!
(↑宗麟公と国際交流、キリスト教のイメージだよ!)
大友家の興隆と宗麟の時代
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名門大友家と「二階崩れの変」 (~1550年)
大友家は、鎌倉時代から続く九州の名門武家。豊後国を拠点に、戦国時代には北九州で大きな力を持っていたんだ。宗麟のお父さんである大友義鑑(よしあき)も勢力拡大に努めたけど、後継者問題から家臣団が分裂し、1550年に「二階崩れの変(にかいくずれのへん)」というお家騒動が勃発!義鑑はこの騒動で亡くなり、息子の義鎮(よししげ、後の宗麟)が21歳で家督を継ぐことになったんだ。波乱の幕開けだったね。
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「六カ国太守」宗麟の全盛期 (1550年~1570年代後半)
家督を継いだ義鎮(宗麟)は、若くしてその才能を発揮!巧みな外交と軍事力で、豊前(ぶぜん)、筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、肥前(ひぜん)、肥後(ひご)といった九州北部の国々へ次々と勢力を拡大。一時は九州の6つの国を支配するほどになり、「六カ国太守」と称えられたんだ。これが大友家の最盛期だよ!
この頃、大友家の本拠地である府内(今の大分市)は、ポルトガルなどとの南蛮貿易で大いに栄え、西洋の文化が花開いた国際都市だったんだ。日本で最初の西洋式病院が建てられたり、キリスト教の宣教師たちが活動したりしていたよ。
- 府内の南蛮文化
- ・日本初の西洋式病院の設立
- ・キリスト教会の建設、孤児院の運営
- ・西洋音楽(クラヴィコードなど)の演奏
- ・パンやワイン、ガラス製品などの伝来
1551年には、有名な宣教師フランシスコ・ザビエルも府内を訪れ、宗麟と会見している。宗麟自身もキリスト教に深く心を寄せ、後には洗礼を受けてドン・フランシスコという洗礼名をもらったんだ。
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キリスト教王国の夢と忍び寄る影
宗麟は、九州にキリスト教の理想郷を築こうとしていた、とも言われているよ。でも、キリスト教を熱心に信仰するあまり、領内の寺社を破壊したりしたことで、家臣や領民の中には反発する者も出てきたんだ。これが、後の大友家の結束を弱める一因になったとも考えられている。
そして、南九州では「島津に暗君なし」と言われた島津氏が急速に力をつけていて、大友領への侵攻をうかがっていたんだ。
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運命の分かれ道!耳川の戦い (1578年)
日向国(今の宮崎県)の支配をめぐって、ついに大友宗麟と島津義久が激突!これが「耳川の戦い(みみかわのたたかい)」だよ。
大友軍は数では勝っていたけど、キリスト教への反発から家臣団のまとまりが悪かったり、油断があったりしたところに、島津軍得意の「釣り野伏せ」の奇襲を受けて総崩れ!立花道雪(たちばなどうせつ)や高橋紹運(たかはしじょううん)といった名だたる猛将たちはこの戦いに参加していなかったものの、多くの有力な家臣を失うという歴史的な大敗北を喫してしまったんだ。この敗戦が、大友家の輝かしい時代に終わりを告げ、衰退へと向かう決定的なきっかけとなったんだ…。
耳川の戦い 大友軍大敗のイメージ
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島津の猛攻と秀吉への救援要請
耳川の戦いの後、島津氏の勢いはますます強まり、大友領はどんどん侵食されていった。宗麟は、もはや自力では島津の猛攻を抑えられないと判断し、中央で天下統一を進めていた豊臣秀吉に助けを求めたんだ。これが、秀吉による大規模な「九州征伐」が行われる大きなきっかけの一つになったんだよ。
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九州征伐と大友家の存続、宗麟の死 (1587年)
1587年、豊臣秀吉の大軍が九州へ上陸。さすがの島津軍もこれにはかなわず降伏した。大友家は、秀吉の助けによって滅亡の危機を免れ、豊後一国(約37万石)を安堵されて存続を許されたんだ。しかし、かつての「六カ国太守」の面影はもうなかった。
そして、九州征伐が終わった直後、大友宗麟はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年58歳だった。
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義統の失態と大友家の改易
宗麟の跡を継いだのは、息子の大友義統(よしむね)だった。義統は、秀吉の命令で朝鮮出兵(文禄の役)に従軍したんだけど、なんと戦場で敵を目の前にして逃げ出すという大失態を犯してしまったんだ(※諸説あり)。これに秀吉は激怒し、大友家は領地をすべて没収(改易)されてしまう。こうして、戦国大名としての大友家は、事実上滅亡してしまったんだ…。
その後、義統は関ヶ原の戦いで西軍に味方して再興を図ったけど失敗。子孫は江戸時代に徳川幕府に仕え、高家(こうけ、儀式などを司る家柄)として細々と家名を存続させたよ。
大友家を彩った主な人々 (一部だよ!)
- 大友宗麟 (おおとも そうりん): この物語の中心人物!本名は義鎮(よししげ)。九州六カ国太守と呼ばれた最盛期を築き、キリスト教を保護した。洗礼名はドン・フランシスコ。
- 大友義鑑 (おおとも よしあき): 宗麟の父。二階崩れの変で非業の死を遂げる。
- 大友義統 (おおとも よしむね): 宗麟の子。朝鮮出兵での失態により改易され、大友家を滅亡させてしまった。
- 立花道雪 (たちばな どうせつ): 大友家随一の猛将。「雷神」と恐れられた。常に輿に乗って戦場を指揮した。
- 高橋紹運 (たかはし じょううん): 道雪と並び称される名将。島津軍の九州侵攻の際、岩屋城で壮絶な玉砕を遂げた。
- フランシスコ・ザビエル: イエズス会の宣教師。日本に初めてキリスト教を伝え、宗麟とも会見した。
Mamechishiki Corner (Bean Knowledge!): Sorin's Love for Music
Ōtomo Sōrin was known not only for his interest in Christianity and Western goods but also for his appreciation of Western music. When Jesuit missionaries visited his domain in Funai (present-day Ōita City), they brought with them musical instruments like the clavichord, viola, and flute. Sōrin reportedly enjoyed listening to their performances and even had his children learn to play these instruments. This embrace of foreign music was part of the vibrant Nanban (Southern Barbarian) culture that flourished in Funai under Sōrin's rule, making it a unique cultural center in Sengoku Japan.
(意訳:大友宗麟は、キリスト教や西洋の品物への関心だけでなく、西洋音楽への理解でも知られていました。イエズス会の宣教師たちが彼の領地である府内(現在の大分市)を訪れた際、彼らはクラヴィコード、ヴィオラ、フルートなどの楽器を持参しました。伝えられるところによると、宗麟はそれらの演奏を聴くのを楽しみ、さらには自分の子供たちにこれらの楽器の演奏を学ばせたと言われています。この異国の音楽の受容は、宗麟の統治下で府内に花開いた活気ある南蛮文化の一部であり、府内を戦国日本のユニークな文化センターにしました。)