九州の猛者! 島津家 (しまづけ) の物語
南国・九州の地で、戦国時代を通じてその名を轟かせた一族がいる! それが「島津家(しまづけ)」だよ。「島津に暗君なし(あんくん、つまりダメな殿様がいないってこと)」と言われるほど、代々有能なリーダーが現れ、その勇猛果敢な戦いぶりは敵を震え上がらせたんだ。
今回は、特に有名な島津四兄弟の活躍や、彼らのお家芸とも言える戦法「釣り野伏せ(つりのぶせ)」、そして関ヶ原の戦いで見せた伝説の撤退戦「島津の退き口」など、島津家の熱い魂の物語を追っていこう!
(↑島津家と薩摩隼人の魂のイメージだよ!)
島津家の栄光と苦難の歴史
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名門・島津家の黎明期
島津家は、なんと鎌倉時代から続く古い家柄で、薩摩国(さつまのくに、今の鹿児島県西部)を本拠地としていたんだ。でも、戦国時代に入ると、島津家も一族の中で分裂したり、周りの豪族たちと争ったりして、なかなか安定しなかったんだ。
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三州統一の礎を築いた島津貴久 (1514年~1571年)
そんな中、島津貴久(たかひさ)が登場! 彼は、バラバラだった島津宗家(本家)をまとめ上げ、薩摩・大隅(おおすみ)・日向(ひゅうが)の三つの国(三州・さんしゅう)を統一するための基礎を築いたんだ。貴久自身も優れた武将だったけど、彼にはもっとすごい息子たちがいたんだよ!
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最強!島津四兄弟の登場 (1560年代~)
貴久の跡を継いだのが、長男の島津義久(よしひさ)。彼を筆頭に、次男の義弘(よしひろ)、三男の歳久(としひさ)、四男の家久(いえひさ)の四兄弟が、それぞれの才能を発揮して島津家を支えたんだ。この四兄弟の団結力が、島津家躍進の最大の原動力だった!
長男 義久
(総大将・政治)次男 義弘
(勇将・鬼島津)三男 歳久
(知将・補佐)四男 家久
(戦上手・先鋒)特に有名な戦いをいくつか紹介するね。
- 木崎原の戦い (1572年): 日向の伊東義祐の大軍を、島津義弘がわずかな兵で打ち破った奇跡的な勝利!
- 耳川の戦い (1578年): キリスト教を信仰した大友宗麟(豊後国の大名)の大軍を破り、島津家の九州における優位を決定づけた戦い。
- 沖田畷の戦い (1584年): 肥前国(今の佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信を破り、討ち取った。これで島津家は、九州統一まであと一歩というところまで迫ったんだ!
これらの戦いで島津軍がしばしば用いたのが、お家芸とも言える戦法「釣り野伏せ(つりのぶせ)」だよ。これは、まず一部の兵がおとりになって敵をおびき寄せ(釣り)、左右に隠しておいた伏兵で挟み撃ちにする(野伏せ)という、とっても巧妙な戦術なんだ。
「釣り野伏せ」イメージ図
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天下人の登場と九州征伐 (1587年)
九州の大部分を制圧した島津家。しかし、その頃、中央では豊臣秀吉が天下統一を進めていた。秀吉は、九州の騒乱を鎮めるという名目で、島津家に降伏を迫る。島津家はこれを拒否し、ついに秀吉自らが20万とも言われる大軍を率いて九州へ攻め込んできたんだ(九州征伐)。
島津軍は各地で奮戦したけど(戸次川の戦いでは、四国の長宗我部元親・信親親子が島津軍に敗れ、信親が戦死するという悲劇も…)、圧倒的な兵力差の前にはさすがの島津もかなわず、ついに降伏。島津義久は出家し、領地は薩摩・大隅と日向の一部に減らされてしまったけど、完全に取り潰されることはなかったんだ。
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朝鮮出兵での武勇、「鬼石曼子」 (1592年~1598年)
秀吉の命令で、島津家も朝鮮へ出兵することになった(文禄・慶長の役)。この戦いでも島津の武勇は際立っていて、特に慶長の役の「泗川(しせん)の戦い」では、島津義弘や家久(貴久の四男とは別の、義弘の子の家久)らが、わずかな兵で明・朝鮮の大軍を打ち破るという大活躍を見せたんだ! あまりの強さに、敵からは「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられたそうだよ(石曼子は島津の中国語読み)。
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関ヶ原の戦いと「島津の退き口」 (1600年)
秀吉が亡くなると、天下は再び動乱の時代へ。徳川家康と石田三成が対立し、1600年、「関ヶ原の戦い」が勃発!島津義弘は、成り行きで西軍に加わることになったけど、兵力はわずか。しかも、西軍の主力として積極的に戦うことはなかった。
西軍が総崩れになると、義弘は敵の大軍の真っ只中に取り残されてしまう。絶体絶命! しかし、ここから島津の真骨頂が発揮される。義弘は、敵陣の正面を突破して薩摩へ帰るという、無謀とも思える撤退戦を敢行! これが有名な「島津の退き口(しまづののきくち)」だよ。多くの家臣たちが盾となり、義弘を生きて薩摩へ帰すために命を落とした。この壮絶な戦いぶりは、敵である家康をも感嘆させたと伝えられている。
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薩摩藩としての存続
関ヶ原での敵中突破は、徳川家康に島津の恐ろしさを改めて認識させた。戦後処理で、家康は島津家の処遇に悩んだけど、最終的には本領である薩摩・大隅・日向の一部を安堵(領地を認めること)。こうして島津家は、外様大名(徳川譜代ではない大名)として大きな力を持ったまま、江戸時代を薩摩藩として生き抜くことになるんだ。そして、幕末には、日本の歴史を再び大きく動かす中心勢力の一つとなるんだよ。
島津家を支えた主な人々 (一部だよ!)
- 島津貴久 (しまづ たかひさ): 島津家中興の祖。三州統一の基礎を築いた。
- 島津義久 (しまづ よしひさ): 貴久の長男。島津家第16代当主。政治・戦略に長け、兄弟をまとめた。
- 島津義弘 (しまづ よしひろ): 貴久の次男。「鬼島津」と恐れられた猛将。数々の武功を立て、関ヶ原の退き口は伝説。
- 島津歳久 (しまづ としひさ): 貴久の三男。知勇兼備で、冷静な判断力で兄たちを補佐。
- 島津家久 (しまづ いえひさ): 貴久の四男。「戦巧者」として多くの戦いで活躍。沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討つ。
- 新納忠元 (にいろ ただもと): 島津家屈指の猛将で、義弘の信頼も厚かった。
Mamechishiki Corner (Bean Knowledge!): Satsuma Hayato and Gōchū Education
The warriors of Satsuma were often called "Satsuma Hayato," referring to an ancient group of people in southern Kyushu known for their bravery and martial spirit. This spirit was fostered through a unique educational system in the later Edo period called "Gōchū kyōiku" (郷中教育). Young samurai were organized into local groups where older boys taught younger boys not only martial arts and academics but also discipline, ethics, and a strong sense of loyalty and self-sacrifice. This system is considered one of the reasons for Satsuma's distinctive and formidable warrior culture, which played a significant role in the Meiji Restoration.
(意訳:薩摩の武士はしばしば「薩摩隼人」と呼ばれましたが、これは古代に南九州に住んでいた、勇猛さと尚武の精神で知られる人々にちなんでいます。この精神は、後の江戸時代に「郷中教育(ごじゅうきょういく)」と呼ばれる独特の教育制度を通じて育まれました。若い武士たちは地域のグループに組織され、年長の少年たちが年下の少年たちに武術や学問だけでなく、規律、倫理、そして強い忠誠心と自己犠牲の精神を教えました。この制度は、明治維新で重要な役割を果たした薩摩の独特で強力な武士文化の理由の一つと考えられています。)