越後の龍! 上杉家 (うえすぎけ) の物語
戦国時代に、「甲斐の虎」武田信玄と双璧をなす英雄がいた!その名は上杉謙信(うえすぎけんしん)。「越後(えちご)の龍(りゅう)」と呼ばれ、生涯を通じて「義(ぎ)」を重んじたと言われる、とっても個性的な武将だよ。
今回は、そんな上杉謙信と、彼が率いた上杉家の歴史をたどってみよう。謙信の戦いの強さはもちろん、なぜ彼が戦ったのか、そして宿命のライバル武田信玄との数々の名勝負、さらには謙信亡き後の上杉家がどうなったのかを見ていくよ!
(↑謙信公と龍のイメージだよ!)
上杉謙信の物語:「義」に生きた生涯
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長尾景虎、越後を駆ける (1530年~1550年頃)
上杉謙信は、1530年に越後国(今の新潟県)の守護代(守護の代理人)だった長尾為景(ながおためかげ)の末っ子として生まれた。幼名は虎千代(とらちよ)、そして元服(成人)して長尾景虎(ながおかげとら)と名乗ったんだ。
お兄さんが病弱だったこともあって、景虎は若い頃から家督を継ぎ、国内の反乱分子を次々と討伐。その戦いぶりはまさに神がかっていたと言われ、あっという間に内乱続きだった越後国を統一しちゃったんだ。この頃から、すでに「軍神」の片鱗を見せていたんだね。
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関東管領上杉の名跡を継ぐ (1550年代~1561年)
その頃、関東地方では相模国(さがみのくに、今の神奈川県)の北条氏康(ほうじょううじやす)が勢力を伸ばしていて、関東の秩序を守る役職だった関東管領(かんとうかんれい)の上杉憲政(うえすぎのりまさ)は領地を追われ、景虎を頼って越後に逃げてきたんだ。
景虎は、この憲政の訴えを聞き入れ、「義」のために北条氏と戦うことを決意!何度も関東へ出兵した。そして、憲政から上杉の姓と関東管領の職を譲り受け、上杉政虎(まさとら)と名乗るようになったんだ(その後、将軍・足利義輝から「輝」の字をもらって輝虎(てるとら)に、そして出家して謙信となるよ)。
有名な「敵に塩を送る」という逸話もこの頃の話。武田信玄が今川氏によって塩の輸入を止められて困っていた時、謙信は「戦いは弓矢でするものだ」と言って、敵である信玄に塩を送ったと伝えられているんだ。謙信の義理堅さを示すエピソードだね(ただし、この話の真偽には諸説あるよ)。
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宿命の対決!川中島の戦い (1553年~1564年)
武田信玄が北へ勢力を伸ばし、信濃国を侵略していく中で、信濃の武士たちは謙信に助けを求めた。これに応える形で、謙信と信玄の間で10年以上にわたる「川中島の戦い」が繰り広げられたんだ。謙信は、自分の領土を広げるためというよりは、信玄の侵略から人々を守るという「義戦(ぎせん)」として戦ったと言われているよ。
特に1561年の第四次川中島の戦いは最大の激戦で、謙信自らが武田本陣に斬り込み、信玄と一騎打ちになったという伝説はあまりにも有名。この時、謙信の軍は「車懸(くるまがか)りの陣」という特殊な陣形をとったとも言われている。決着はつかなかったけど、両軍ともに大きな損害を出した壮絶な戦いだったんだ。
川中島の戦い 上杉軍の陣形イメージ
(↑車懸りの陣は、部隊が車輪のように回転しながら攻撃する陣形と言われているよ!)
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関東出兵と越中平定 (1560年代~1570年代前半)
謙信は関東管領として、北条氏の圧迫に苦しむ関東の諸将を助けるため、何度も大軍を率いて関東へ出兵した。一時は北条氏の本拠地である小田原城を包囲するまでに迫ったけど、関東の武士たちはなかなか一つにまとまらず、完全に平定するには至らなかったんだ。
一方で、西の越中国(今の富山県)にも兵を進め、一向一揆と戦いながらほぼ平定。さらに能登国(のと、今の石川県北部)の畠山氏の内紛にも介入し、その影響力を日本海側に広げていった。
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織田信長との対決!手取川の戦い (1577年)
その頃、中央では織田信長が急速に勢力を拡大していた。はじめは友好関係もあったけど、信長が将軍・足利義昭を追放し、天下統一への野心を見せ始めると、謙信は信長とも対立するようになる。
1577年、能登へ侵攻してきた柴田勝家(しばたかついえ)率いる織田の大軍と、加賀国(かがのくに、今の石川県南部)の手取川(てどりがわ)で激突!謙信は巧みな戦術で織田軍を打ち破り、その強さを天下に示した。これが「手取川の戦い」だよ。信長にとって、大きな痛手となった戦いの一つだ。
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「軍神」の死と御館の乱 (1578年~1579年)
手取川の勝利の後、謙信はさらなる大遠征(関東か上方か、目的ははっきりしない)の準備を進めていたと言われる。しかし、1578年3月、春日山城(かすがやまじょう)で突然倒れ、そのまま帰らぬ人に…。享年49歳。あまりにも早い、そして謎めいた死だった(病死説が有力だけど、暗殺説なども囁かれる)。
謙信は生涯結婚せず、実子がいなかった。そのため、二人の養子、上杉景勝(かげかつ、姉の子)と上杉景虎(かげとら、北条氏康の子)の間で、壮絶な跡目争いが勃発!これが「御館の乱(おたてのらん)」だよ。この内乱で上杉家は大きなダメージを受け、国力を消耗してしまったんだ。
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景勝の時代、そして豊臣、徳川の世へ
約1年に及んだ御館の乱を制したのは、上杉景勝だった。彼の側には、後に「愛」の兜で有名になる名臣・直江兼続(なおえかねつぐ)がいた。
景勝は、織田信長が本能寺の変で倒れた後の混乱期を乗り越え、やがて天下人となった豊臣秀吉に臣従。秀吉の命令で、越後から会津(今の福島県西部)120万石という広大な領地へ移ることになったんだ。
秀吉の死後、関ヶ原の戦い(1600年)では、景勝は石田三成率いる西軍に味方し、徳川家康と敵対。この時、兼続が家康に送ったとされる挑戦的な手紙「直江状」は有名だね。戦いの結果、西軍は敗北し、上杉家は会津120万石から米沢(今の山形県南部)30万石へと大幅に領地を減らされてしまう。でも、取り潰しにならず、江戸時代も大名として存続できたのは、謙信以来の名声と、景勝・兼続の努力があったからだろうね。
上杉家を彩った主な人々 (一部だよ!)
- 上杉謙信 (うえすぎ けんしん): この物語の主人公!戦の天才で「軍神」と称えられた。私欲のためではなく「義」のために戦ったとされる。毘沙門天(びしゃもんてん)を深く信仰していた。
- 上杉景勝 (うえすぎ かげかつ): 謙信の甥で養子。御館の乱を制して上杉家を継いだ。寡黙だが意志の強い武将。
- 直江兼続 (なおえ かねつぐ): 景勝の右腕として活躍した名宰相。「愛」の一字を前立てにした兜が有名。
- 柿崎景家 (かきざき かげいえ): 上杉軍随一の猛将。川中島の戦いなどで活躍。
- 宇佐美定満 (うさみ さだみつ): 謙信の軍師の一人と言われるが、謎の多い人物。
Mamechishiki Corner (Bean Knowledge!): Kenshin's Devotion to Bishamonten
Uesugi Kenshin was a devout follower of Bishamonten, the Buddhist deity of warfare and warriors, as well as a guardian of the north. Kenshin saw himself as an avatar or incarnation of Bishamonten, and he would often retreat to a special hall dedicated to the deity in his Kasugayama Castle for prayer and meditation before battles. His battle flag often bore the character "Bi" (毘) for Bishamonten. This deep religious faith is believed to have been a source of his military prowess and his commitment to fighting for what he considered righteous causes, rather than personal gain.
(意訳:上杉謙信は、仏教における戦さと武人の神であり、北の守護神でもある毘沙門天の熱心な信者でした。謙信は自身を毘沙門天の化身または権化とみなし、戦の前には春日山城内にある毘沙門天に捧げられた特別な堂に籠って祈りや瞑想を行っていました。彼の軍旗にはしばしば毘沙門天を表す「毘」の文字が記されていました。この深い宗教的信仰が、彼の軍事的な武勇や、私利私欲のためではなく彼が正義とみなすもののために戦うという彼の姿勢の源であったと考えられています。)