尾張・美濃の風雲児! 織田家 (おだけ) の物語
さあ、戦国大名たちの物語、最初の主役は「織田家(おだけ)」だよ! 特に、第六天魔王とも呼ばれた型破りなヒーロー、織田信長(おだのぶなが)の活躍を中心に見ていこう!
織田家はもともと、尾張国(おわりのくに、今の愛知県西部)の一領主にすぎなかった。でも、信長の登場で、またたく間に勢力を広げ、天下統一まであと一歩というところまで迫るんだ。いったいどんなドラマがあったんだろうね?
(↑信長公のイメージ。実際の肖像画とは違うよ!)
織田信長の物語:年表風に見てみよう!
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誕生と「うつけ者」時代 (1534年~)
織田信長は、尾張国の武将・織田信秀(おだのぶひで)の息子として生まれた。お父さんの信秀もなかなかやり手の武将だったけど、尾張国を完全にまとめ上げるまでには至らなかったんだ。
若い頃の信長は、奇抜な格好をしたり、常識はずれな行動が多かったりして、「尾張の大うつけ(おおばかの意味)」なんて呼ばれていたんだ。でも、それはもしかしたら、周りの目を欺くための演技だったのかも…?あるいは、本当に型破りな性格だったのかもしれないね!
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家督相続と尾張統一 (1551年~1559年)
父・信秀が亡くなると、信長は織田家のリーダー(家督・かとく)を継ぐ。でも、すぐに家中がまとまったわけじゃない。弟の織田信勝(のぶかつ、信行とも)との間でリーダー争いが起きたり、他の織田一族や家臣たちも、みんながみんな信長に従ったわけではなかったんだ。
信長は、時には厳しく、時には巧みな策を使って、これらの敵対勢力を一つ一つ打ち破り、ついに尾張国を統一することに成功するんだ。この頃から、信長の非凡な才能がキラリと光り始めるよ。
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運命を変えた!桶狭間の戦い (1560年)
尾張を統一した信長だけど、周りはまだまだ強敵だらけ。そんな中、駿河国(するがのくに、今の静岡県中部・東部)の大大名、今川義元(いまがわよしもと)が、数万の大軍を率いて尾張に攻め込んできたんだ!当時の織田軍は数千人。誰もが「信長、絶体絶命!」と思った。
でも、信長はあきらめなかった。豪雨の中、油断していた今川軍本隊に奇襲攻撃をしかけ、見事、義元の首を取るという大金星を挙げる!これが有名な「桶狭間の戦い(おけ하자まのたたかい)」だよ。この勝利で、信長の名前は一気に全国にとどろいたんだ。
桶狭間の戦い イメージ図
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美濃攻略と「天下布武」 (1561年~1567年)
桶狭間の勝利で勢いに乗った信長は、次に隣の美濃国(みののくに、今の岐阜県南部)を攻略にかかる。美濃は斎藤道三(さいとうどうさん)という有名な大名が治めていたけど、信長が結婚した濃姫(のうひめ)のお父さんでもあったんだ。でも、道三は息子に倒されてしまい、美濃は斎藤龍興(たつおき)が継いでいた。
美濃攻略は簡単じゃなかったけど、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)のような優れた家臣を味方に引き入れたりして、ついに攻略に成功。信長は美濃の稲葉山城を「岐阜城(ぎふじょう)」と改名し、ここを新たな本拠地としたんだ。そして、「天下布武(てんかふぶ)」という印鑑を使い始める。「武力をもって天下に新しい秩序を布(し)く」という意味で、信長の天下統一への決意表明だったんだね!
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上洛と信長包囲網 (1568年~1573年)
信長は、室町幕府の将軍の座を追われていた足利義昭(あしかがよしあき)を助けて、京都に軍を進める(上洛・じょうらく)。そして義昭を将軍の位につけたんだ。これで信長は、将軍の後ろ盾として、ますます大きな力を持つようになった。
でも、だんだん信長と義昭は仲が悪くなっていく。信長が幕府の政治に口を出しすぎるのが、義昭は気に入らなかったんだね。ついに義昭は、各地の大名たちに「信長を倒せ!」と命令を出す。こうして、浅井長政・朝倉義景、武田信玄、毛利輝元、石山本願寺など、そうそうたるメンバーが信長に敵対する「信長包囲網(のぶながほういもう)」が作られたんだ!信長、大ピンチ!
信長包囲網 イメージ図
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包囲網との激闘と勝利 (1570年~1580年頃)
信長はこの絶体絶命のピンチを、持ち前の行動力と戦術で乗り越えていく。
姉川の戦い(あねがわのたたかい、1570年):徳川家康と同盟して、浅井・朝倉連合軍を破る!
比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち、1571年):浅井・朝倉をかくまった比叡山延暦寺を焼き討ち。これはかなり激しいやり方で、後々まで批判されることもあったよ。
三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい、1573年):武田信玄には大敗北…。家康と一緒に逃げる信長、人生最大のピンチの一つだった。
長篠の戦い(ながしののたたかい、1575年):武田信玄亡き後の武田勝頼軍と激突。信長は大量の鉄砲を使い、馬に乗った武田の最強騎馬軍団を打ち破ったと言われているよ。(※鉄砲の三段撃ちについては、最近はいろんな説があるんだ)この勝利は、戦いのやり方を大きく変えたとも言われている。
長篠の戦い 鉄砲隊イメージ (Canvas)
(ここに長篠の戦いの鉄砲隊の活躍をイメージしたCanvasアニメーションが入る予定だよ!)
石山本願寺との和睦(1580年):10年も続いた石山本願寺との戦いも、ついに終わらせる。
こうして信長は、一つ、また一つと敵を打ち破り、1573年には将軍・足利義昭を京都から追い出して、室町幕府は事実上滅亡したんだ。
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安土城築城と革新的政策 (1576年~)
最大の敵の一つだった武田氏を滅ぼし(甲州征伐、1582年)、天下統一が目前に迫ってきた信長。彼は琵琶湖のほとりに、当時としては超豪華で巨大な「安土城(あづちじょう)」を築いた。これはただの城じゃなくて、信長の新しい時代の象徴だったんだ。天主(天守閣)は地上5階地下1階で、中には金箔が貼られ、豪華な絵が描かれていたらしいよ。
信長は戦いだけでなく、新しい世の中を作るための政策もどんどん進めた。
- 楽市楽座(らくいちらくざ):城下町などで、誰でも自由に商売ができるようにして、経済を活発にした。
- 関所の撤廃:人や物の移動を邪魔していた関所をなくして、物流をスムーズにした。
- 兵農分離の推進:武士は戦いに専念し、農民は農業に専念するように分けた。
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天下統一目前…そして本能寺の変 (1582年)
残る大敵は、中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、九州の島津氏、関東の北条氏くらいになっていた。信長は家臣の羽柴秀吉(はしばひでよし、後の豊臣秀吉)に毛利攻めを命じるなど、着々と天下統一を進めていた。
そんな中、1582年6月2日、信長は京都の本能寺(ほんのうじ)に宿泊していた。そこへ、家臣であるはずの明智光秀(あけちみつひで)が大軍を率いて襲いかかったんだ!「敵は本能寺にあり!」という有名なセリフと共にね。
わずかな供しか連れていなかった信長は奮戦したけど、最後は寺に火を放ち、自ら命を絶ったと言われている。享年49歳。天下統一まであと一歩というところでの、あまりにも衝撃的な最期だった…。
なぜ光秀が裏切ったのかは、日本の歴史上最大の謎の一つで、今でも色々な説があるんだ(恨み説、野望説、黒幕説などなど)。
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織田家のその後
信長の死後、織田家は後継者争いなどで混乱する。信長の次男・信雄(のぶかつ)や三男・信孝(のぶたか)、そして孫の三法師(さんほうし、後の秀信)などがいたけど、結局、信長の家臣だった羽柴秀吉が実権を握っていくことになるんだ。織田家が天下の中心になることはなかったけど、信長が始めた天下統一事業は秀吉に引き継がれていくよ。
織田家の主な人々 (一部だよ!)
- 織田信長 (おだ のぶなが): この物語の主人公!革新的な発想と行動力で時代を駆け抜けた。短気で厳しい面もあったけど、家臣や領民の才能を見抜く目も持っていたと言われるよ。
- 織田信秀 (おだ のぶひで): 信長の父。尾張の一部を支配し、信長が活躍する土台を築いた。
- 濃姫 (のうひめ): 信長の正室。美濃の斎藤道三の娘。政略結婚だったけど、賢く信長を支えたという逸話も(謎の多い人物でもある)。
- 柴田勝家 (しばた かついえ): 織田家随一の猛将。「鬼柴田」と呼ばれた。
- 丹羽長秀 (にわ ながひで): 信長の古くからの家臣で、誠実な人柄で「米五郎左」と呼ばれた(そつなく何でもこなすという意味)。
- 明智光秀 (あけち みつひで): 知的で有能な武将だったが、本能寺で信長を討った。
- 羽柴秀吉 (はしば ひでよし): 後の豊臣秀吉。信長に才能を見出され、足軽から大出世した。
Mamechishiki Corner (Bean Knowledge!): Nobunaga's Nickname
Oda Nobunaga was sometimes called the "Sixth Heaven Demon King" (第六天魔王 - Dairokuten Maō). This was a self-proclaimed title he reportedly used in a letter to Takeda Shingen, a rival daimyō who was also a devout Buddhist. The Dairokuten Maō is a figure in Buddhism who tries to prevent people from achieving enlightenment. By using this title, Nobunaga was perhaps showing his defiance towards traditional Buddhist authorities, whom he often clashed with (like the Enryaku-ji temple monks or the Ikkō-ikki warrior monks), and projecting an image of fearsome power.
(意訳:織田信長は時折「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と呼ばれていました。これは、彼がライバルであり敬虔な仏教徒でもあった武田信玄に送ったとされる手紙の中で用いた自称の肩書きです。第六天魔王は仏教において人々が悟りを開くのを妨げようとする存在です。この肩書きを使うことで、信長はしばしば衝突した延暦寺の僧侶や一向一揆の武装僧のような伝統的な仏教権威に対する反抗心を示し、恐るべき力のイメージを投影していたのかもしれません。)