ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

7-2. 明治維新とは何か? - 武士の世の終焉と近代国家日本の誕生

前回は、強固に見えた江戸幕府の権威が、様々な「内憂外患」によって揺らぎ、崩壊へと向かう過程を見たね。そして、その幕府の終焉を受けて、日本は歴史上でも類を見ないほど急速かつ広範な「変革」の時代へと突入する。それが「明治維新(めいじいしん)」だ。「維新」という言葉には、「これまでの古い仕組みを改めて、全てを新しくする」という意味が込められている。

このページでは、大政奉還・王政復古から戊辰戦争を経て成立した明治新政府が、どのような理念を掲げ、どのような具体的な改革を断行し、日本を封建的な幕藩体制から中央集権的な近代国民国家へと脱皮させようとしたのか、その激動のプロセスと歴史的意義を探っていく。それは単なる政権交代に留まらず、政治・経済・社会・文化のあらゆる側面に及ぶ大変革だったんだ。

1. 明治維新の幕開け:王政復古と戊辰戦争

江戸幕府の終焉は、新たな権力闘争と国内の統一に向けた戦いの始まりでもあった。

  • 大政奉還(たいせいほうかん) (1867年10月) の再確認: 15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は、土佐藩の建白を受け入れ、政権を朝廷に返上。これにより江戸幕府は形式的に消滅した。しかし、慶喜はなお大きな政治的影響力を保持しようとしていた。
  • 王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい) (1867年12月) と小御所会議(こごしょかいぎ): 薩摩藩・長州藩を中心とする討幕派は、大政奉還だけでは不十分とし、岩倉具視(いわくらともみ)ら一部の公家と結んでクーデターを決行。天皇親政を宣言し、幕府と摂政・関白の廃止、そして総裁・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)からなる三職による新政府の樹立を決定した。同日夜の小御所会議では、慶喜に対し辞官納地(じかんのうち)(官職の辞任と領地の返上)を決定し、徳川家の政治的影響力を完全に排除しようとした。
  • 戊辰戦争(ぼしんせんそう) (1868年~1869年): 新政府の強硬な処分に反発した旧幕府勢力や佐幕派諸藩と、新政府軍との間で起こった内戦。
    • 緒戦となった鳥羽・伏見の戦い(1868年1月)で新政府軍が勝利。
    • その後、戦火は関東・東北へと拡大。江戸城無血開城、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)の抵抗(会津戦争など)、そして最後の抵抗拠点となった箱館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)の戦い(榎本武揚らが降伏)を経て、約1年半に及ぶ内戦は新政府軍の勝利で終結した。
    • これにより、新政府は武力による国内統一を達成した。
  • 五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん) (1868年3月): 明治天皇が天地神明に誓うという形で、新政府の基本方針を示したもの。
    一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
    一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
    一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
    一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
    一、知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

    開明的な国是を示し、公議政体論(諸侯会議による政治)を主張する勢力にも配慮した内容となっている。

  • 五榜の掲示(ごぼうのけいじ) (1868年3月): 新政府が民衆に対して示した5つの制札。儒教的道徳の遵守、徒党・強訴・逃散の禁止、そしてキリスト教の禁止継続など、旧幕府の政策を引き継ぐ側面も見られた。

2. 明治新政府による主要な改革:近代国家建設への怒涛の歩み

内戦を終結させた新政府は、「富国強兵(ふこくきょうへい)」と「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」をスローガンに、西洋列強に伍する近代的な国民国家の建設を目指し、矢継ぎ早に様々な改革を断行した。これらの改革は、しばしば「明治の三大改革」とも称される版籍奉還・廃藩置県学制徴兵令地租改正などを含む。

  • 中央集権体制の確立:
    • 版籍奉還(はんせきほうかん) (1869年): 全国の諸藩主(旧大名)に、その領地(版図)と人民(戸籍)を形式的に朝廷へ返還させた。旧藩主は知藩事(ちはんじ)に任命され、引き続き藩政を担当したが、これは中央集権化への布石だった。薩摩・長州・土佐・肥前の有力藩主が率先して行った。
    • 廃藩置県(はいはんちけん) (1871年): 全国に約270あった藩を廃止し、新たに府と県を設置。中央政府から府知事・県令を派遣して直接統治する体制を確立した。これにより、約700年続いた封建的な大名領有制は完全に解体され、統一的な中央集権国家が樹立された。薩長土肥の藩士からなる御親兵(ごしんぺい)の武力を背景に、反対を抑えて断行された。
    • 太政官制(だじょうかんせい)の整備: 明治初期の政府組織。太政大臣、左右大臣、参議などから構成。その後、内閣制度へと移行していく。
    東大での着眼点: なぜ廃藩置県のような大改革が、比較的短期間に大きな抵抗なく(武力衝突はあったが限定的)断行できたのか? その背景にある国内状況や新政府の戦略を考察する。
  • 身分制度の解体と四民平等(しみんびょうどう):
    • 従来の士農工商や被差別身分を廃止し、国民を皇族・華族(かぞく:旧公家・大名)・士族(しぞく:旧武士)・平民(へいみん:旧農工商など)に再編成。
    • 法的には、職業選択の自由、結婚の自由、居住移転の自由などを認め、四民平等を謳った。しかし、実質的な差別意識や旧身分による社会的な格差は根強く残った。
    • 解放令 (1871年): 旧えた・ひにん身分の呼称を廃止し、平民に編入。しかし、これによって長年の差別が解消されたわけではなかった。
    • 秩禄処分(ちつろくしょぶん): 士族の特権であった世襲の俸禄(家禄・賞典禄)を、金禄公債証書(きんろくこうさいしょうしょ)の支給などによって段階的に廃止。これにより、士族は経済的特権を失い、多くの士族が困窮した(士族の反乱の一因となる)。武士階級の解体。
  • 国力の増強(富国強兵:ふこくきょうへい):
    • 地租改正(ちそかいせい) (1873年~): 土地の所有権を確認して地券(ちけん)を発行し、土地の価格(地価)を定めて、その地価の3%(後に2.5%に軽減)を現金で納める税制へと変更。従来の米納の年貢から金納へと転換し、豊凶に関わらず安定した国家財政の確立を目指した。しかし、農民の負担は必ずしも軽減されず、地租改正反対一揆(伊勢暴動など)も発生した。
    • 殖産興業(しょくさんこうぎょう): 政府が主導して近代的な産業を育成する政策。官営模範工場(富岡製糸場など)の設立、鉄道(新橋~横浜間開通など)や電信の敷設、郵便制度の創設、新しい貨幣制度の確立(新貨条例で「円」を採用)、国立銀行条例による銀行制度の導入など。
    • 徴兵令(ちょうへいれい) (1873年): 「国民皆兵」を目指し、満20歳以上の男子に身分に関わらず兵役の義務を課した。これにより、士族に代わる近代的な常備軍が創設された。しかし、多くの免役規定があり、特に農家の長男などが徴兵を嫌って起こした「血税一揆(けつぜいいっき)」も発生した。
    • 学制(がくせい) (1872年): 「邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん」という理念のもと、国民皆学を目指した近代的な学校制度の導入。全国に小学校を設置し、男女の区別なく就学を奨励した(当初の就学率は低かったが次第に上昇)。
  • 文明開化(ぶんめいかいか):

    明治初期に、西洋の文化・技術・思想・生活様式などが急速に日本社会に流入し、人々の生活や意識が大きく変化した現象。「西洋のものは何でも良いもの」とする風潮も生まれた。

    • 太陽暦の採用(太陰暦から)、断髪令(だんぱつれい)、洋装の奨励、洋食(牛肉食など)の普及、煉瓦造りの建物の出現(銀座煉瓦街など)、新聞・雑誌の発行、ガス灯の設置、人力車の登場。
    • 思想面では、福沢諭吉の『学問のすゝめ』や『西洋事情』、中村正直(なかむらまさなお)の『西国立志編』(スマイルズ『自助論』の翻訳)、加藤弘之(かとうひろゆき)らが、天賦人権思想や実学、功利主義などを紹介し、啓蒙思想家として活躍。明六社(めいろくしゃ)の活動。
    • 一方で、急速な西洋化に対する反発や、伝統文化との葛藤も見られた。

3. 明治維新の理念と思想的背景:何を目指したのか?

明治維新を推進した指導者たちは、どのような理念や思想に基づいて行動したのだろうか。

  • 尊王攘夷思想の変質: 幕末に高揚した尊王攘夷思想は、討幕運動の原動力となったが、開国後はその攘夷の部分が後退。天皇を中心とする国家(尊王)のもとで、外国の侵略を防ぎ、独立を保つためには、むしろ積極的に西洋の進んだ文明を取り入れて国力を高める必要があるという考え方(大攘夷論、あるいは富国強兵論)へと変化していった。
  • 国学・水戸学の影響: 天皇を中心とする国家体制の正当性や、日本の独自性を強調する思想は、新政府のイデオロギー形成に影響を与えた。
  • 西洋思想の影響: 福沢諭吉らが紹介した啓蒙思想(天賦人権、自由、平等など)は、自由民権運動へと繋がっていく。また、西洋の国家制度や法体系、科学技術なども積極的に学ばれた。
  • 「和魂洋才(わこんようさい)」: 日本古来の精神(和魂)を保ちながら、西洋の優れた技術や制度(洋才)を選択的に取り入れて活用しようとする考え方。明治期の近代化の一つの指導理念となった。

4. 江戸時代から明治時代への「連続性」と「断絶性」:何が変わり、何が残ったか?

明治維新は、日本の歴史における大きな転換点だが、それは江戸時代との完全な断絶を意味するのだろうか? それとも多くのものが引き継がれたのだろうか? この「連続と断絶」の視点は非常に重要だ。

  • 断絶性(変わったこと):
    • 政治体制: 幕藩体制(武家政権)の解体と、天皇を中心とする中央集権的な官僚国家の樹立。
    • 身分制度: 士農工商や被差別身分の廃止(四民平等)。法的な身分制の解体。
    • 対外政策: 「鎖国」から開国へ。不平等条約の改正が大きな外交課題となる。
    • 社会・文化: 西洋文明の積極的な導入(文明開化)による生活様式や価値観の大きな変化。
  • 連続性(引き継がれたもの・残ったもの):
    • 経済的基盤: 江戸時代に発展した商品経済、全国的な市場、交通網、商業資本などは、明治期の資本主義発展の基礎となった。
    • 人的資源・教育水準: 江戸時代の高い識字率や、藩校・寺子屋・私塾などで育まれた教育レベル、そして幕末に活躍した指導者層の多く(薩長土肥出身者など)が、新政府でも引き続き重要な役割を担った。
    • 技術・知識: 和算や本草学、一部の伝統産業技術などは、形を変えながらも近代的な学術・技術へと繋がる素地となった。蘭学を通じて得られた西洋の知識も近代化に貢献。
    • 社会構造・意識: 村や「家」といった共同体意識、あるいは旧身分に基づく差別意識などは、形を変えながらも明治以降の社会にも根強く残存した。地主制も明治期に確立・強化された。
    • 天皇の権威: 江戸時代を通じて維持された天皇の伝統的権威が、新国家の求心力として利用された。
東大での着眼点: 明治維新を「革命」と評価すべきか、それとも「上からの改革」と見るべきか、あるいはその両方の側面を持つのか。江戸時代から明治時代への「連続性」と「断絶性」について、具体的な事象を挙げながら、その両面性をバランスよく論じられるようにすることが極めて重要。

5. 明治維新の歴史的意義と残された課題

明治維新は、その後の日本のあり方を決定づける、極めて大きな歴史的意義を持つ大変革だったが、同時に新たな課題も生み出した。

  • 歴史的意義:
    • アジア諸国が次々と西洋列強の植民地・半植民地となる中で、日本の独立を維持し、短期間で近代的な工業国家・立憲国家への道を切り開いた。
    • 「国民」という意識を創出し、統一的な国家体制を築き上げた。
    • 社会の流動性を高め、個人の能力が発揮される余地を広げた(限定的ではあるが)。
  • 残された課題・問題点:
    • 急速な「上からの近代化」であったため、国民の権利意識や民主主義思想の成熟は十分ではなかった
    • 天皇に強大な権限を集中させる天皇制絶対主義的な国家体制(大日本帝国憲法)へと向かう傾向。
    • 新政府の指導者層が薩長土肥出身者で占められる藩閥(はんばつ)政治への批判と、それに対する自由民権運動の展開。
    • 地租改正による地主制の確立と、多くの小作農の生活は依然として苦しいままだった。
    • 殖産興業の過程での財閥(ざいばつ)の形成と経済力の集中。
    • 「富国強兵」のスローガンのもと、軍備拡張とアジアへの進出(朝鮮問題、台湾出兵など)という、後の帝国主義への道を歩み始める。
    • 旧被差別身分の人々に対する差別は、法的には解消されても社会的には根強く残った。
【学術的豆知識】「一君万民(いっくんばんみん)」という理念

明治維新を推進した思想の一つに、「一君万民」という考え方があった。これは、「唯一の君主である天皇のもとに、全ての人民は平等である」という理念だ。この思想は、封建的な身分制度を解体し、天皇を中心とする新しい国民国家を創り出す上で、非常に強力なイデオロギーとなった。武士の特権を剥奪し、四民平等を掲げる根拠ともなった。しかし、この「万民」が実際にどの程度「平等」であったのか、そして「一君」である天皇がどのような権力を持つべきなのかについては、その後も様々な議論や対立を生むことになるんだ。

(Click to listen) One of the ideas that propelled the Meiji Restoration was the concept of "Ikkun Banmin," which translates to "One Sovereign, Ten Thousand People (all people are equal under the one sovereign)." This ideology became a powerful force in dismantling the feudal status system and creating a new nation-state centered pTM the Emperor. It provided a rationale for abolishing samurai privileges and declaring the equality of the four classes (shimin byōdō). However, the extent to which these "ten thousand people" were actually "equal," and what kind of power the "one sovereign" Emperor should wield, continued to generate various debates and conflicts thereafter.

This Page's Summary in English (Click to expand and listen to paragraphs)

This page explains the Meiji Restoration, a pivotal period of rapid transformation in Japanese history that marked the end of the Edo Shogunate and the birth of modern Japan. It was not merely a change in government but a comprehensive overhaul of Japan's political, economic, social, and cultural systems.

The Restoration began with the Taisē Hōkan (Return of Political Power to the Emperor by the Shogun in 1867), followed by the Ōsei Fukko no Daigōrei (Declaration of the Restoration of Imperial Rule) and the Boshin War (1868-1869), a civil war between the new Meiji government forces and those loyal to the former Shogunate. The new government, guided by the Five Charter Oath (Gokajō no Goseimon, 1868), embarked on a series of sweeping reforms aimed at creating a centralized, modern nation-state capable of resisting Western imperialism, under the slogans "Fukoku Kyōhei" (Enrich the Country, Strengthen the Military) and "Shokusan Kōgyō" (Promotion of Industry).

Key reforms included: 1. Establishment of a centralized state: Abolition of feudal domains and establishment of prefectures (Haihan Chiken, 1871) after the initial Hanseki Hōkan (Return of Lands and People, 1869). 2. Dismantling of the feudal class system: Creation of new social categories (kazoku, shizoku, heimin) aiming for "Shimin Byōdō" (equality of the four classes), though de facto discrimination persisted. Samurai privileges, including stipends (Chitsuroku Shobun), were abolished. 3. Strengthening national power: The Land Tax Reform (Chisokaisei) established a modern tax system based on land value. Shokusan Kōgyō policies promoted modern industries (e.g., Tomioka Silk Mill, railways, postal system). The Conscription Ordinance (Chōheirei) created a national army. The Education System Order (Gakusei) introduced modern schooling for all. 4. Bunmei Kaika (Civilization and Enlightenment): Rapid adoption of Western culture, technology, ideas, and lifestyles.

The Meiji Restoration was driven by a complex mix of ideologies, including a transformed Sonnō Jōi thought, Kokugaku, and Western ideas, often summarized by the phrase "Wakon Yōsai" (Japanese Spirit, Western Technology). It represented both a sharp discontinuity from the feudal Edo period (e.g., end of shogunal rule, abolition of feudal domains and class system) and continuity (e.g., leveraging Edo's economic and educational foundations, many Bakumatsu leaders playing key roles in the new government). While it successfully modernized Japan and preserved its independence, it also created new challenges, including the rise of an absolutist Meiji state, social inequalities, and an expansionist foreign policy.


これで「第7章 江戸時代の終焉」の探求は終了だ。約260年続いた江戸幕府が倒れ、日本が近代国家へと生まれ変わる激動のドラマを追いかけてきた。 この壮大な歴史の物語が、君の知的好奇心を刺激し、未来を考える上での糧となることを願っているぞ。

トップページ(目次)へ戻る

(この後は、第3部「歴史的思考力を磨く」、第4部「東大入試対策 実践演習」へと続いていく予定だ!)