ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

2-4-4. 科学技術と医学の発展 - 和算の挑戦、暦の改訂、そして西洋医学の衝撃

江戸時代と聞くと、武士や町人文化の華やかさがまず思い浮かぶかもしれないが、その一方で、当時の人々は自然の法則を探求し、生活を豊かにするための科学技術や、人々の命を救うための医学の分野でも、地道ながらも着実な発展を遂げていたんだ。「鎖国」という限られた国際環境の中でも、日本独自の知恵と、わずかな窓から入ってくる西洋の知識とが融合し、ユニークな成果を生み出していった。

このページでは、日本独自の数学である和算(わさん)の驚くべき到達点、国家の威信と農民の生活に直結した暦学(れきがく)・天文学(てんもんがく)の進歩、身近な自然を見つめた本草学(ほんぞうがく)、そして伝統的な漢方医学と西洋医学(蘭方医学)がせめぎ合い、発展した医学の歴史を探っていく。これらは、江戸時代の人々の合理的精神や実証的態度の現れであり、後の日本の近代化を支える重要な素地ともなったんだ。

1. 和算 (わさん):日本独自の数学の挑戦と遊戯性

和算は、江戸時代に日本で独自に発展した数学体系だ。算盤(そろばん)の普及を背景に、実用的な問題解決から高度な数学理論の探求まで、幅広い展開を見せた。

  • 特徴:
    • 実用性の重視:土地の測量(町見術、規矩術)、金利計算、暦の計算、治水工事の計算など、日常生活や社会のニーズに応える形で発展。
    • 高度な理論探求:円周率の精密な計算、方程式論、幾何学の難問など、西洋数学に匹敵するほどの高度な内容も扱われた。
    • 遊戯性と競争性: 数学の問題を解き合う「遺題継承(いだいけいしょう)」という習慣や、解答を絵馬にして神社仏閣に奉納する「算額(さんがく)」という独特の文化が生まれた。これは、数学を一種の知的遊戯として楽しむ風潮があったことを示している。
  • 代表的な和算家:
    • 関孝和 (せきたかかず/せきこうわ) (?-1708): 「算聖(さんせい)」と称えられる和算の最大の功労者。筆算による代数(点竄術:てんざんじゅつ)を確立し、円周率の精密な計算行列式の概念の発見(世界的に見ても早い時期)、高次方程式の解法など、数多くの重要な業績を上げた。
    • 関の弟子である建部賢弘(たけべかたひろ)松永良弼(まつながよしすけ)なども、師の業績を発展させ、和算をさらに高いレベルへと引き上げた。
  • 『塵劫記 (じんこうき)』: 吉田光由(よしだみつよし)が1627年に著した数学の入門書。算盤の基本的な使い方から、日常生活で役立つ様々な計算問題(利息計算、面積計算、油分け算など)を分かりやすく解説し、挿絵も多用されたため、大ベストセラーとなった。これが和算の庶民への普及に絶大な貢献をした。
  • 意義と限界: 和算は非常に高度なレベルに達したが、その記号体系が複雑で一般化しにくかったことや、西洋数学との組織的な交流が限定的だったことなどから、明治以降の近代数学へ直接的に移行することは難しかった。しかし、江戸時代の人々の論理的思考力や計算能力を高めた意義は大きい。
算額のイメージ

算額:難問が解けたことを神仏に感謝し、その問題と解法を絵馬にして奉納した。

2. 暦学 (れきがく) と 天文学 (てんもんがく):宇宙への挑戦と国家事業

暦(こよみ)は、農業生産(種まきや収穫の時期の決定)や日常生活、さらには儀式や年中行事にとって不可欠なものであり、正確な暦を作成し頒布することは、為政者の重要な権能とされた。

  • 暦の重要性と改暦の必要性: 江戸時代初期まで、日本では約800年間も中国の宣明暦(せんみょうれき)が使われていたが、長い年月の間に実際の天体の動きとのズレが大きくなり、日食や月食の予測が当たらなくなるなど、生活上の不都合が生じていた。
  • 貞享暦 (じょうきょうれき) への改暦 (1685年): 幕府の碁方であった渋川春海 (しぶかわはるみ)(安井算哲:やすいさんてつ)が、中国の授時暦(じゅじれき)を参考にしつつ、日本各地での天文観測データに基づいて独自の計算を行い、新しい暦である貞享暦を作成。これが幕府に採用され、日本で最初の和暦(日本人が作った暦)となった。これは、実測と計算に基づく科学的な態度の勝利であり、日本の天文学・暦学の大きな転換点だった。
  • その後の改暦 (宝暦暦・寛政暦): 貞享暦も次第に誤差が生じてきたため、さらに精密な暦への改訂が試みられた。その過程では、西洋天文学の知識(コペルニクスの地動説やケプラーの法則など)も部分的に取り入れられた。
    • 宝暦暦 (ほうりゃくれき) (1755年): 土御門家(つちみかどけ)などの伝統的な暦家と、幕府天文方の間で主導権争いがあった。
    • 寛政暦 (かんせいれき) (1798年): 幕府天文方の高橋至時 (たかはしよしとき)間重富 (はざましげとみ)らが、西洋天文学の成果を大幅に取り入れて作成。非常に精密な暦だった。
  • 幕府天文方 (てんもんかた): 暦の編纂、天文観測、地図測量などを専門に行う幕府の役所。渋川春海が初代天文方に任命された。
  • 伊能忠敬 (いのうただたか) (1745-1818) の全国測量: 高橋至時の弟子。隠居後に天文学と測量術を学び、幕府の事業として17年間にわたり日本全国の沿岸を測量。その成果は、驚くほど精密な日本地図『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』としてまとめられた(弟子たちにより1821年完成)。これは、国土の正確な把握という点で、国家統治や国防上も極めて重要な意味を持った。
東大での着眼点: なぜ暦の作成・改訂が国家的な事業として重視されたのか、その政治的・社会的背景。渋川春海による貞享暦の成立や、伊能忠敬による日本地図の作成が、それぞれ日本の科学史・文化史においてどのような意義を持つのかを説明できるように。

3. 本草学 (ほんぞうがく) と博物学 (はくぶつがく):身近な自然への関心と分類

本草学は、薬用となる植物(薬草)を中心に、動物や鉱物なども含めた自然物を研究し、その名称、形状、性質、効能などを明らかにする学問。中国の伝統的な薬物学の影響を受けつつ、日本独自の発展を遂げた。

  • 発展の背景: 医療への関心の高まり(薬の原料として)、諸藩の殖産興業政策(有用植物の栽培奨励など)、そして純粋な知的好奇心など。
  • 代表的な本草学者と著作:
    • 貝原益軒 (かいばらえきけん) (1630-1714): 福岡藩の儒学者・本草学者。『大和本草(やまとほんぞう)』を著し、日本の動植物約1300種を実証的に分類・記述した。庶民向けの生活訓・健康指南書である『養生訓(ようじょうくん)』も有名で、広く読まれた。
    • 稲生若水 (いのうじゃくすい) (1655-1715): 加賀藩の藩医。幕府の命で大規模な本草書『庶物類纂(しょぶつるいさん)』の編纂に着手(未完)。
    • 小野蘭山 (おのらんざん) (1729-1810): 京都の本草学者。中国の『本草綱目』を分かりやすく解説した『本草綱目啓蒙(ほんぞうこうもくけいもう)』を著し、本草学の普及に貢献。幕府の医学館の教授も務めた。
  • 博物学的関心の広がり: 薬草だけでなく、様々な動植物や鉱物に対する関心が高まり、各地で珍しい物産を持ち寄る物産会(ぶっさんかい)薬品会(やくひんえ)が開かれたり(平賀源内も関与)、精密な写生図を含む博物図譜(はくぶつずふ)が作成されたりした。

4. 医学 (いがく):伝統医学と蘭方医学の交錯と発展

江戸時代の人々の健康と命を守る医学もまた、大きな発展を遂げた。伝統的な漢方医学に加え、蘭学を通じて西洋医学が導入され、両者が互いに影響を与え合いながら進歩していった。

伝統医学 (漢方医学) の展開

  • 中国医学を基礎とし、陰陽五行説などの哲学的な考え方と結びつきながら発展。診断は脈診(みゃくしん)・腹診(ふくしん)・舌診(ぜっしん)などが中心で、治療には主に漢方薬鍼灸(しんきゅう:はり・きゅう)が用いられた。
  • 後世方 (ごせいほう): 室町時代に日本に伝わった宋・元・明代の中国医学(李朱医学)。田代三喜(たしろさんき)曲直瀬道三(まなせどうさん)らが広めた。江戸時代初期まで主流。
  • 古方派 (こほうは): 17世紀後半頃から登場。後世方の思弁的な理論を批判し、中国古代の医学書である『傷寒論(しょうかんろん)』『金匱要略(きんきようりゃく)』に立ち返り、実証的な診断と治療を目指した。
    • 代表的な古方派の医師:名古屋玄医(なごやげんい)後藤艮山(ごとうこんざん)香川修庵(かがわしゅうあん)、そして日本で初めて人体解剖(観臓)を行った山脇東洋(やまわきとうよう)(1754年、『蔵志(ぞうし)』を著す)。

蘭方医学 (らんぽういがく) の導入と衝撃

  • 蘭学を通じてオランダの医学書が紹介され、特に外科解剖学の分野で大きな影響を与えた。
  • 『解体新書 (かいたいしんしょ)』 (1774年) の刊行: 前野良沢(まえのりょうたく)杉田玄白(すぎたげんぱく)、中川淳庵(なかがわじゅんあん)らが、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を苦心の末に翻訳・出版。それまでの日本の医学における人体理解を覆す正確な解剖図は、医学界に衝撃を与え、実証主義の重要性を強く印象づけた。この出来事は、日本の近代医学の夜明けとも言える。
  • 内科分野への広がりと独自の手術法開発:
    • 華岡青洲 (はなおかせいしゅう) (1760-1835): 漢方と蘭方の知識を融合させ、世界で初めて全身麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」(曼荼羅華などを配合)を開発し、乳がんの摘出手術に成功(1804年)。
  • 種痘(しゅとう)の導入: 天然痘は江戸時代にも猛威を振るった恐ろしい病気だったが、19世紀半ばになると、イギリスのジェンナーが開発した牛の痘(うしのいぼ)を利用した牛痘種痘法(ぎゅうとうしゅとうほう)が蘭学医によって紹介された。緒方洪庵(おがたこうあん)は、大坂に適塾を開き、種痘の普及に尽力し、多くの人命を救った。
  • シーボルトと鳴滝塾: ドイツ人医師シーボルトは、長崎の出島に滞在中、鳴滝塾(なるたきじゅく)を開いて多くの日本人に西洋医学や博物学を教え、日本の医学・科学の発展に貢献した。
漢方医学 (古方派) と蘭方医学の主な比較
視点漢方医学 (古方派中心)蘭方医学
基本理論古代中国医学 (『傷寒論』等)、気血水、実証重視西洋近代医学、解剖学・生理学に基づく
診断方法脈診、腹診、舌診など視診、聴診、打診 (初期は限定的)、病歴聴取
治療方法漢方薬 (生薬の組み合わせ)、鍼灸外科手術、一部の内科薬、種痘などの予防医学
得意分野慢性疾患、全身的な不調の改善外科的疾患、解剖学的知見が必要な分野、感染症予防
解体新書の図版イメージ

『解体新書』の精密な人体解剖図は、日本の医学に大きな影響を与えた。

東大での着眼点: 古方派の登場が日本の伝統医学にどのような変化をもたらしたか。『解体新書』の翻訳・刊行が、単に医学知識の導入に留まらず、日本の学術界全体に与えた「実証精神」という点での意義。華岡青洲や緒方洪庵といった人物の具体的な業績とその重要性。伝統医学と西洋医学が、江戸時代においてどのように対立し、また相互に影響を与え合ったのかを理解すること。

科学技術・医学の発展が社会に与えた影響:近代化への礎

江戸時代における科学技術や医学の発展は、当時の社会に様々な影響を与え、また後の日本の近代化にとっても重要な基盤となった。

【学術的豆知識】平賀源内 – 江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ?

江戸時代中期の化政文化期に先駆けて活躍した人物に、平賀源内(ひらがげんない)(1728-1780)がいる。彼は讃岐高松藩出身の武士だが、その才能は実に多岐にわたっていた。本草学者として物産会を開き、蘭学者としてエレキテル(摩擦起電機)を復元し、寒暖計や火浣布(石綿の布)を製作。さらに、戯作者として浄瑠璃や洒落本を書き、洋風画を描き、鉱山開発にも手を出すなど、まさに「江戸のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とも呼べるような万能の才人だった。彼の活動は、当時の日本が持っていた知的好奇心の旺盛さと、新しいものを取り入れようとするエネルギーを象徴している。しかし、そのあまりに時代を先取りした才能と奔放な性格は、時に周囲との摩擦を生み、晩年は不遇だったとも言われているんだ。

(Click to listen) Hiraga Gennai (1728-1780), active before the Kasei cultural period in the mid-Edo era, was a truly multifaceted talent, often dubbed the "Leonardo da Vinci of Edo." Originally a samurai from Takamatsu Domain in Sanuki, his genius spanned numerous fields. As a herbalist, he organized product fairs; as a Rangaku scholar, he replicated an "Erekiteru" (electrostatic generator) and produced thermometers and asbestos cloth (kakanpu). Furthermore, he wrote Jōruri and Sharebon as a Gesaku writer, painted Western-style pictures, and even ventured into mine development. His activities symbolize the vibrant intellectual curiosity and the energy to embrace novelty that existed in Japan at the time. However, his talents, too far ahead of his time, and his uninhibited personality sometimes caused friction with those around him, and it is said his later years were unfortunate.

This Page's Summary in English (Click to expand and listen to paragraphs)

This page explores the development of science, technology, and medicine during the Edo period. Despite Japan's "sakoku" (national seclusion) policy, indigenous advancements were made, and Western knowledge was selectively absorbed, primarily through Dutch Learning (Rangaku).

Wasan (Japanese mathematics) flourished independently, characterized by practical applications (surveying, commerce) and a highly sophisticated, almost recreational, aspect (e.g., "idai keishō" problem-solving challenges, "sangaku" votive tablets with math problems). Seki Kōwa is a towering figure, establishing algebraic methods (tenzanjutsu) and achieving world-class results in areas like pi calculation and determinants. Yoshida Mitsuyoshi's "Jinkōki" greatly popularized wasan.

Calendrical studies (Rekigaku) and astronomy (Tenmongaku) were vital state concerns. Shibukawa Harumi created the Jōkyō calendar (1685), Japan's first domestically produced lunisolar calendar based on actual observations, replacing the long-used Chinese Senmyō calendar. Later, the Kansei calendar, incorporating Western astronomical knowledge, was developed by scholars like Takahashi Yoshitoki. The Shogunate's Astronomical Observatory (Tenmonkata) was responsible for these tasks. Inō Tadataka, under Takahashi's tutelage, conducted a nationwide survey and created the remarkably accurate "Dai Nihon Enkai Yochi Zenzu" map of Japan.

Honzōgaku (herbalism and natural history), influenced by Chinese materia medica, developed with figures like Kaibara Ekiken ("Yamato Honzō," "Yōjōkun") and Ono Ranzan, who empirically studied and classified Japan's flora and fauna. Public interest in natural history grew, with product fairs and illustrated encyclopedias.

Medicine (Igaku) saw the coexistence and interaction of traditional Sino-Japanese medicine (Kanpō) and newly introduced Western medicine (Ranpō igaku). Within Kanpō, the Koho-ha (Ancient Method School), advocating a return to classical Chinese medical texts and emphasizing empirical observation, emerged (e.g., Yamawaki Tōyō, who performed Japan's first documented human dissection). Ranpō igaku, primarily through Dutch sources, significantly impacted surgery and anatomy. The translation of the Dutch anatomical atlas "Ontleedkundige Tafelen" as "Kaitai Shinsho" (1774) by Sugita Gempaku and Maeno Ryōtaku was a landmark event, promoting an empirical approach. Hanaoka Seishū developed general anesthesia ("Tsūsensan") for surgery, and Ogata Kōan championed smallpox vaccination. These advancements contributed to improving medical standards and laid some groundwork for Japan's later modernization in science and technology.


これで「文化編」の探求は全て終了だ。学問・思想、元禄・化政の町人文化、そして科学技術・医学の発展と、江戸時代の知と美、そして技の世界を旅してきた。 次は、いよいよ江戸時代の最終章、「江戸時代の終焉」へと進むぞ。

次へ進む:第7章 江戸時代の終焉