ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

2-3-1. 身分制度の実態と変容 - 「士農工商」の序列と人々の境界

江戸時代の社会を特徴づける最も重要な要素の一つが、「身分制度」だ。これは、人々が生まれながらにして特定の社会集団に属し、その身分に応じた権利や義務、職業、生活様式が定められていた仕組みのこと。江戸幕府は、戦国時代の混乱を収め、社会秩序を安定させるために、この身分制度を確立し、強化していった。

一般的に「士農工商(しのうこうしょう)」という言葉で、武士・農民・職人・商人の序列が語られることが多い。しかし、実際の江戸社会は、これら4つの身分だけでなく、天皇や公家、僧侶や神職、そして法的な身分制度の枠外に置かれ厳しい差別を受けた人々など、より多様な人々によって構成されていた。このページでは、それぞれの身分がどのような役割を担い、どのような生活を送り、そしてこの身分制度が時代とともにどのように変化していったのか、その実態に迫っていくぞ。

主要な身分とその役割・生活:「士農工商」

「士農工商」は、儒教的な社会観に基づいて、社会の構成員をその職業や役割に応じて序列化したものとされている。ただし、これは厳密な法的区分というよりは、社会的な序列意識や観念的な側面も強かった点に注意が必要だ。

士(武士)- 支配する人々

人口の約7~10%

  • 役割・特権: 幕府や藩の政治・軍事を担う支配階級。土地を支配し、年貢を徴収する権利を持つ(知行取)。苗字帯刀(みょうじたいとう)(苗字を名乗り、大小二本の刀を差すこと)や、無礼な町人や農民を斬り捨てても罰せられないとされる切捨御免(きりすてごめん)(ただし、実際には厳格な条件があり、濫用はできなかった)といった特権を持っていた。
  • 生活: 将軍や大名から俸禄(ほうろく)と呼ばれる給料(主に米)を得て生活。多くは城下町に集住し、藩の役人として行政事務や軍務に就いた。武士道という独自の倫理観や価値観を持っていたとされるが、平和な時代が続くと、次第に官僚化・文治化していく。
  • 義務: 主君への忠誠、軍役の義務。
  • 内部階層: 大名から、上級武士(家老など)、中級武士、そして下級武士(徒士(かち)、足軽(あしがる)など)まで、内部には複雑な階層が存在した。特に下級武士は俸禄も少なく、生活に困窮する者も多かった。この下級武士層の不満が、幕末の変革の原動力の一つとなる。
東大での着眼点: 武士の特権とそれが意味するもの、武士道という理念と実際の武士の生活との間のギャップ、そして武士階級内部の多様性と矛盾(特に上士と下士の関係や、経済的困窮が武士の意識に与えた影響)などを深く理解することが重要。

農(農民)- 生産する人々

人口の約80~85%

  • 役割・義務: 米や麦、雑穀、そして様々な商品作物など、食料や生活物資を生産する最も基本的な階層。幕府や藩の財政基盤である年貢(ねんぐ)を納めることが最大の義務だった。「百姓は国の本なり」とされ、表向きは武士に次ぐ身分とされたが、実際には厳しい支配と搾取の対象となることも多かった。
  • 生活: 村(村落共同体)を単位として生活。自分の田畑を持つ本百姓(ほんびゃくしょう)が村の中心的な構成員だったが、土地を持たない水呑百姓(みずのみびゃくしょう)や、地主から土地を借りて耕作する小作人(こさくにん)も多く存在した。生活は自然条件(豊凶)に大きく左右され、厳しい年貢や災害に苦しむこともあったが、一方で商品作物の栽培などで豊かになる農民(豪農)も現れた。
  • 統制と自治: 五人組制度によって相互監視と連帯責任を負わされる一方、村役人(庄屋・名主など)を中心に、村の運営(村方騒動の解決や用水管理など)にある程度の自治が認められていた(村請制)。

工(職人)- 製造する人々

人口の数%

  • 役割: 道具、武具、衣類、建築物など、様々な製品を製造する技術者集団。大工、左官、鍛冶屋、紺屋(染物屋)、畳屋、桶屋など、多種多様な職種があった。
  • 生活: 主に都市(城下町や大都市)に居住し、親方(おやかた)のもとで職人、そして徒弟(とてい)という身分・技術の階梯がある徒弟制度の中で技術を習得した。同業の職人が株仲間を結成し、営業の安定を図ることもあった。幕府や藩に召し抱えられ、特定の製品を製作する御用職人(ごようしょくにん)もいた。

商(商人)- 流通させる人々

人口の数%

  • 役割: 商品の売買や流通、金融などを担う人々。問屋、仲買、小売、両替商など、こちらも多様な業種があった。
  • 生活: 主に都市に居住。「士農工商」の序列では最下位とされたが、これは「自ら物を生産しない」という儒教的な価値観に基づくもの。しかし、商品経済が発展するにつれて、その経済力は増大し、中には大名に資金を貸し付けるほどの豪商(三井、鴻池、住友など)も出現した。彼らは経済の実権を握るだけでなく、町人文化の重要な担い手ともなった。
東大での着眼点: なぜ「士農工商」という身分序列の中で商人が最下位に位置づけられたのか、その思想的背景。そして、その序列にもかかわらず、商人が江戸時代の経済や文化において果たした重要な役割とは何か。この「建前」と「実態」のギャップを理解することがポイント。

その他の身分・集団:多様な人々

「士農工商」の枠組みだけでは捉えきれない、様々な立場の人々が江戸社会には存在した。

天皇・公家 (てんのう・くげ)

  • 天皇: 日本の最高権威として尊ばれたが、江戸時代には政治的な実権は持たず、京都の御所で儀礼的な役割を果たす存在だった。
  • 公家: 朝廷に仕える貴族階級。幕府から禁中並公家諸法度によって厳しく統制され、経済的にも幕府に依存していた。学問や和歌などの伝統文化の継承者としての役割を担った。

僧侶 (そうりょ)・神職 (しんしょく)

  • 役割: 仏教寺院や神社に属し、宗教儀礼や民衆の教化、葬祭などを担った。寺社は広大な寺社領を持つこともあり、一定の特権を認められていた。
  • 統制: 幕府は寺請制度(てらうけせいど)(人々がいずれかの寺院の檀家となることを義務付け、キリシタンではないことを証明させる制度)や本末制度(ほんまつせいど)(各宗派の本山が末寺を統括する制度)を通じて、宗教勢力を統制下に置いた。
  • その他: 寺院は寺子屋を開いて庶民教育の一翼を担うなど、文化的・教育的な役割も果たした。

えた・ひにん(被差別身分)- 社会の周縁に置かれた人々

人口の約1~2%とも言われるが、正確な統計は難しい。

(注意:これらの身分は、不当な差別の対象とされてきました。歴史的事実として学ぶことは重要ですが、現代においていかなる差別も許されるものではありません。)

  • 概要: 「士農工商」の枠外(賤民(せんみん)とも呼ばれた)に置かれ、社会的に厳しい差別を受けた人々。特定の職業(皮革の加工・製造(履物、太鼓など)死んだ牛馬の処理行刑(罪人の処刑や牢番)芸能・大道芸など)への従事を強いられたり、居住地を他の身分の人々と分けられたり(特定の地域に集住させられた)、服装や交際、寺社の参詣なども制限されるなど、様々な社会的制約と偏見に苦しんだ。
  • 「えた(穢多)」: 主に上記の特定の職業に従事し、その身分は世襲とされた。「かわた」とも呼ばれた。
  • 「ひにん(非人)」: 刑罰として一時的に非人身分に落とされる者や、病気や貧困などで行き場を失った人々(非人小屋に収容された)なども含まれたが、次第に固定化・世襲化する傾向が強まった。芸能に従事する者も非人身分とされることがあった。
東大での着眼点: 被差別身分がなぜ、どのようにして形成され、近世社会の中で固定化されていったのか、その歴史的背景(中世以来の「ケガレ」意識との関連など)を理解すること。また、彼らが担った特定の「役」が、社会全体にとってはある意味で不可欠なものであったという側面も考慮に入れる必要がある。

身分制度の「建前」と「実態」:固定と流動の狭間

江戸時代の身分制度は、原則として世襲制であり、一度決められた身分から別の身分へ移ることは非常に困難だった。これが「建前」としての固定性だ。しかし、実際の社会では、全く身分間の移動がなかったわけではない。

身分制度の変容と動揺 (特に後期~幕末):揺らぐ秩序

江戸時代も後期に入り、特に幕末に近づくと、この身分制度も様々な側面から揺らぎを見せ始める。

これらの動きは、江戸時代の身分制度がもはや社会の実情に合わなくなってきていることを示しており、最終的には明治維新における四民平等(しみんびょうどう)という新たな身分制度(実質的には身分解放)へと繋がっていくことになる。

【学術的豆知識】「苗字帯刀」は武士だけの特権だった?

「苗字帯刀」は武士の特権の象徴とされることが多いけれど、実は全ての武士が自由に苗字を公称できたわけではなかったり、逆に一部の有力な農民や町人が、功績などによって特別に苗字帯刀を許されたりするケースもあったんだ。例えば、村役人層の農民(庄屋・名主など)は、公の場で苗字を名乗ったり、脇差を差したりすることを許される場合があった。また、幕府や藩に多額の献金をした商人なども同様の扱いを受けることがあった。身分制度は厳格な「建前」がありつつも、社会の実態に合わせてある程度の「弾力性」や「例外」も存在したことがわかるね。

(Click to listen) "Myōji-taitō" (the right to have a surname and wear swords) is often considered a symbolic privilege of the samurai, but in reality, not all samurai could publicly use a surname freely. Conversely, some influential peasants and townspeople were specially permitted Myōji-taitō for their achievements or contributions. For example, village officials among peasants (Shōya, Nanushi, etc.) were sometimes allowed to use surnames publicly and wear a short sword (wakizashi). Merchants who made large donations to the Shogunate or domains could also receive similar treatment. This shows that while the status system had strict "official rules," there was also a degree of "flexibility" and "exceptions" in practice, adapting to social realities.

This Page's Summary in English (Click to expand and listen to paragraphs)

This page delves into the reality and transformation of the status system in Edo-period Japan, famously known as "Shi-nō-kō-shō" (Warriors, Farmers, Artisans, Merchants). This system was fundamental to social order and control under the Tokugawa Shogunate.

The Samurai (Shi) were the ruling class (approx. 7-10% of the population), responsible for military and administrative affairs, enjoying privileges like Myōji-taitō (surname and swords) and Kirisute-gomen (right to kill commoners disrespecting them, though rarely exercised). They lived on stipends (hōroku) and resided in castle towns. The Peasants (Nō), the largest group (approx. 80-85%), were the primary producers, mainly of rice, and paid nengu (land tax). They lived in village communities with some autonomy (e.g., Muraukesei) but faced hardships. Artisans (Kō) and Merchants (Shō), though ranked lower, were vital. Artisans produced various goods, often under an apprentice system. Merchants handled commerce and finance; despite their lower official status, some (like the Mitsui and Kōnoike) amassed great wealth and significantly influenced the economy and culture.

Other groups existed outside this main framework, including the Emperor and Court Nobility (Kuge), who held traditional authority but no political power; Buddhist Monks (Sōryo) and Shinto Priests (Shinshoku), who performed religious and sometimes educational roles under shogunal control (e.g., Tera-uke system); and discriminated-against outcaste groups (Eta, Hinin), who were forced into specific occupations and faced severe social segregation and prejudice. These groups were hereditary and faced harsh restrictions.

While theoretically rigid and hereditary, the status system had some limited fluidity (e.g., adoption, purchase of status). The "official ranking" did not always match economic or social influence, especially as merchants gained power. By the late Edo period, the system faced significant strains due to economic changes (e.g., samurai impoverishment, rise of wealthy commoners), the emergence of meritocratic ideas (though limited), and growing discontent among lower samurai and commoners, eventually leading to its dissolution in the Meiji Restoration (Shimin Byōdō - equality of the four classes).


江戸時代の身分制度の複雑な実態と、その変化の兆しが見えてきただろうか? 次は、この身分制度のもとで人々が暮らした「都市」の構造と、そこで花開いた町人たちの生活文化について詳しく見ていこう。

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