ウルトラ先生の江戸時代マスターへの道

2-2-1. 農業技術・農村構造・商品作物 - 大地の恵みと人々の知恵、変貌する村の姿

江戸時代の日本は、人口の約8割以上が農民であり、国の経済も社会も、その基盤は農業にあったと言っても過言ではない。「農は天下の本なり」という言葉(農本主義)が、まさにこの時代の基本的な考え方を示している。しかし、それは単に米を作って年貢を納めるだけの静的な世界ではなかったんだ。そこには、人々の弛まぬ努力による技術革新があり、社会の変化とともに農村の構造も大きく変わり、さらには市場経済の波を受けて多様な商品作物が栽培されるようになるという、ダイナミックな営みがあった。

このページでは、江戸時代の農業がどのようなシステムのもとで行われ、どのように発展し、そしてそれが農村社会や農民の生活、ひいては幕藩体制全体にどのような影響を与えていったのかを、詳しく見ていくぞ。大地の恵みと人々の知恵が織りなす、江戸時代の農業と農村の物語を紐解こう。

1. 江戸時代の農業の基本システム:石高制と年貢

江戸時代の農業と農村を理解する上で、まず押さえておきたいのが、その根幹をなす制度だ。

  • 石高制 (こくだかせい): 土地の生産力を、米の収穫量を示す単位である「石(こく)」で評価する制度。1石は約180リットルで、大人1人が1年間に消費する米の量に相当するとされた。大名の領地の規模(加賀百万石など)や武士の給料(俸禄)もこの石高で表され、農民に課される年貢の基準ともなった。
    東大での着眼点: 石高制が幕藩体制の維持に果たした役割は何か? また、米以外の多様な生産物をどのように評価し、組み込んでいたのか(あるいは組み込めなかったのか)という限界点も考察の対象となる。
  • 年貢 (ねんぐ): 農民が領主(幕府や藩)に納める税のこと。主なものは本途物成(ほんとものなり)と呼ばれ、原則として収穫された米で納められた。年貢率は検地(土地調査)の結果に基づいて村ごとに決定され、「四公六民」や「五公五民」(収穫の4割~5割を年貢として納める)といった言葉で表されるが、実際には豊凶や地域の事情によって変動した。 その他にも、山野河海の産物や手工業品などに対して課される小物成(こものなり)や、臨時の夫役(労働力の提供)である国役(くにやく)・村役(むらやく)などもあった。
  • 村請制 (むらうけせい): 年貢や諸役を、個々の農民から直接徴収するのではなく、村単位でまとめて納入させる制度。村の責任者である村役人(むらやくにん)――庄屋(しょうや)や名主(なぬし)、組頭(くみがしら)、百姓代(ひゃくしょうだい)など――が、村内の年貢割当や徴収、納入を取り仕切った。これにより、幕府や藩は効率的に税を徴収できた一方、村にはある程度の自治が認められていた。

2. 農業技術の進歩と生産力の向上:人々の知恵と工夫

江戸時代は、戦乱が収まり平和な時代が続いたことで、農業技術も目覚ましい発展を遂げ、食料生産力は大きく向上した。これが人口増加を支え、都市の発展を可能にしたんだ。

  • 新田開発 (しんでんかいはつ): 幕府や藩は、財政基盤の強化や食料増産のため、積極的に新田開発を奨励した。大規模な灌漑(かんがい)工事や干拓(かんたく)・埋め立てが行われ、耕地面積は大幅に増加した。代表的なものに関東平野の見沼代用水(みぬまだいようすい)や、越後平野の紫雲寺潟新田(しうんじがたしんでん)などがある。町人が資金を提供して開発を行う町人請負新田(ちょうにんうけおいしんでん)も見られた。
  • 農具の改良と普及:
    備中鍬のイメージ
    備中鍬 (びっちゅうぐわ): 刃先が三つ又や四つ又に分かれており、深耕(深く耕すこと)が可能になった。これにより土地の生産性が向上。
    千歯扱のイメージ
    千歯扱 (せんばこき): 脱穀(稲穂から籾を外す作業)の効率を飛躍的に高めた。
    唐箕のイメージ
    唐箕 (とうみ): 風力で籾殻(もみがら)や藁くずを吹き飛ばし、玄米を選別する道具。
    他にも、揚水用の踏車(ふみぐるま)などが普及し、農作業の省力化と効率化が進んだ。
  • 肥料の多様化と施肥技術の向上: それまでの草木を刈って田畑に敷き込む刈敷(かりしき)や下肥(しもごえ:人間の糞尿)といった自給肥料に加え、市場で購入する金肥(きんぴ)が使われるようになった。代表的な金肥には、鰯を乾燥させた干鰯(ほしか)や、菜種などから油を搾った後の油粕(あぶらかす)がある。これら金肥の使用は、土地の生産力を高め、連作を可能にした。
  • 品種改良と栽培技術の進歩: 各地で気候風土に適した稲の品種が開発され、収量が増加。また、一つの田畑で年に二度、あるいは三度異なる作物を栽培する二毛作・三毛作も普及した。これらの知識は、宮崎安貞の『農業全書』(1697年)のような農業書を通じて広まっていった。
  • 治水・利水技術の発達: 灌漑用水路の整備や堤防の構築など、水をコントロールする技術も進歩した。
東大での着眼点: これらの農業技術の進歩が、単に食料生産を増やしただけでなく、商品経済の発展、農村社会の変容、さらには環境に与えた影響(例えば、金肥の使用による漁業との関連など)まで含めて、多角的に考察できるかが問われる。

3. 商品作物の栽培と流通の拡大:市場を目指す農業へ

農業技術の向上と市場経済の発展は、農民が自分たちで食べるためだけでなく、市場で販売して現金収入を得ることを目的とした商品作物(しょうひんさくもつ)の栽培を広まらせた。これにより、農村と都市、あるいは地域間の経済的な結びつきが強まっていった。

  • 代表的な商品作物:
    • 繊維作物: 綿(めん)は、温暖な畿内、東海、瀬戸内沿岸などで広く栽培され、木綿織物の原料として重要だった。麻(あさ)や、染料となる紅花(べにばな)(出羽村山地方など)、藍(あい)(阿波藩が有名)なども各地で特産化した。
    • 油料作物: 灯油の原料となる菜種(なたね)や荏胡麻(えごま)の栽培も盛んだった。
    • 嗜好品(しこうひん): (宇治など)や煙草(たばこ)は、広い階層に普及し、重要な商品となった。
    • その他: 絹織物の原料となる養蚕(ようさん)は、上野(こうずけ)・信濃(しなの)・陸奥(むつ)などで盛んになり、生糸や絹織物は重要な輸出品ともなった(幕末)。薩摩藩や讃岐(さぬき)での砂糖(さとう)(和三盆など)生産や、四国や九州での木蝋(もくろう)生産なども特徴的だ。
  • 地域分業と全国市場: 特定の商品作物の生産が、その栽培に適した地域に集中する地域分業が進んだ。そして、これらの特産品は、大坂などの大都市の市場を通じて全国に流通し、全国的な規模での市場経済が形成されていった。
江戸時代の主要商品作物産地(イメージ) 主要商品作物 産地 (イメージ) 綿 紅花 養蚕 ※あくまで代表例の配置イメージです

各地で特色ある商品作物が栽培され、全国市場へと流通していった。

4. 農村構造の変化と階層分化:豊かになる者、苦しむ者

商品経済の波は、それまでの比較的均質だった農村社会にも大きな変化をもたらし、農民の間に貧富の差(階層分化)を生み出していった。

  • 本百姓 (ほんびゃくしょう) 体制の動揺: 江戸時代初期の農村は、検地帳に登録され、自分の田畑と家屋敷を持ち、年貢や諸役を負担する本百姓が中心だった。彼らは村の運営にも参加する、いわば自作農だ。しかし、商品経済が進展すると、この体制が揺らぎ始める。
  • 地主 (じぬし) の出現と成長: 商品作物の栽培や商業活動で富を蓄積し、他の農民の土地を買い集めて地主となる者(豪農:ごうのうとも呼ばれる)が現れた。彼らは土地を小作人に貸し付けて地代(小作料)を得るだけでなく、村役人として村政を牛耳ったり、在郷商人(ざいごうしょうにん)として酒屋や質屋、問屋などを経営したり、金融業(高利貸し)に進出したりすることもあった。
  • 小作人 (こさくにん) の増加: 一方で、災害や借金、あるいは年貢の重圧などから土地を手放し、地主から土地を借りて耕作する小作人が増加した。彼らは高い小作料を納めねばならず、不安定な生活を強いられた。
  • 水呑百姓 (みずのみびゃくしょう): 田畑を全く持たないか、持っていてもごくわずかで、農業だけでは生活できず、日雇い労働や手工業などで生計を立てる農民。都市へ出稼ぎに行く者もいた。
  • 村方騒動 (むらかたそうどう) と 百姓一揆 (ひゃくしょういっき):
    • 村方騒動: 村役人の不正や地主による小作料の引き上げなど、村内部の対立から発生する紛争。
    • 百姓一揆: 年貢の減免や不正な代官の罷免などを領主に要求する、農民の集団的な抗議行動。初期は代表者が直訴する代表越訴型一揆(だいひょうおっそがたいっき)が多かったが、中期以降は多数の農民が武装蜂起する惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)も増えた。後期には、社会の不正を正し、貧しい人々を救済しようとする世直し一揆(よなおしいっき)も見られるようになる。
東大での着眼点: 商品経済の発展が、なぜ農村の階層分化(特に地主の成長と小作人の増加)を促進したのか、そのメカニズムを説明できるように。また、成長した地主層(豪農)が、村の政治や文化、あるいは幕末の政治運動においてどのような役割を果たしたのかも重要な論点だ。

5. 農村の生活と文化、そして幕府・藩の対応

厳しい年貢や階層分化の中でも、農民たちは共同で働き、独自の文化を育んでいた。一方、幕府や藩も、農村の安定と生産力維持のため、様々な政策を講じた。

  • 農村の共同作業と自治: 田植えや稲刈り、水路の維持管理など、多くの農作業は結(ゆい)もやいと呼ばれる共同労働で行われた。村の掟(おきて)を作り、村八分のような制裁を科すなど、村には強い自治的機能があった(村請制のもと)。
  • 農民の生活と文化: 厳しい労働の合間には、年中行事や祭りなどの娯楽もあった。寺子屋が普及し、農民の間でも識字率が向上。これは、農業技術の伝達や、商品経済への対応能力を高める上でも重要だった。
  • 幕府・藩の農村政策:
    • 生活安定・維持策: 奢侈禁止・倹約令、風俗取締、間引き(まびき)の禁止(人口維持のため)、田畑永代売買の禁(初期~中期、本百姓体制維持のためだが、実態は質流れなどで土地移動はあった)。
    • 人口流出抑制策: 都市への人口集中を抑え、農村の労働力を確保するため、旧里帰農令(きゅうりきのうれい)(寛政の改革)や人返しの法(ひとがえしのほう)(天保の改革)が出されたが、効果は限定的だった。
    • 殖産興業政策: 藩によっては、財政再建のため、地域の特産品(商品作物)の栽培を奨励し、それを藩が買い上げて販売する専売制(せんばいせい)を強化するところもあった。
【学術的豆知識】江戸時代の農民は本当に貧しかったのか?

「百姓は生かさぬよう殺さぬよう」という言葉が伝えられるように、江戸時代の農民は常に重税に苦しみ、貧しい生活を強いられていたというイメージが強いかもしれない。確かに年貢は重く、飢饉の際には多くの餓死者も出た。しかし、一方で、平和な時代の継続と農業技術の発展により、全体として見れば、中世以前に比べて農民の生活水準は向上し、人口も増加したと考えられているんだ。特に商品作物の栽培に成功した地域や、副業で収入を得た農民の中には、かなりの富を蓄える者もいた。もちろん、地域差や階層差は大きかったけれど、「江戸時代の農民=常に悲惨」という一面的な見方は、必ずしも実態を反映していないんだね。

(Click to listen) The phrase "Let peasants neither live nor die" might create a strong image of Edo period peasants constantly suffering under heavy taxes and living in poverty. Indeed, land taxes were heavy, and famines caused many deaths. However, on the other hand, due to continued peace and advancements in agricultural technology, it is believed that, overall, the living standards of peasants improved compared to the medieval period and before, and the population also increased. Particularly in regions successful in cash crop cultivation, or among peasants who earned income from side businesses, some accumulated considerable wealth. Of course, regional and class disparities were significant, but a one-sided view of "Edo peasants = always miserable" does not necessarily reflect reality.

This Page's Summary in English (Click to expand and listen to paragraphs)

This page explores agriculture in the Edo period, the backbone of its economy. It details the basic agricultural system, technological advancements, the rise of cash crops, and resulting changes in rural society.

The fundamental system included the Kokudaka system (land productivity assessed in koku of rice, forming the basis for taxes and stipends) and Nengu (land tax, primarily paid in rice, collected under the Muraukesei village-contract system). Significant technological progress occurred: Shinden Kaihatsu (new rice field development) expanded arable land. Improved tools (Bitchū-guwa, Senbakoki, Tōmi), diverse fertilizers (including purchased "kinpi" like dried sardines and oil cakes), better crop varieties, and advanced cultivation techniques (e.g., a two- or three-crop system) boosted productivity.

This led to the widespread cultivation of cash crops for market sale, such as cotton, indigo, safflower, rapeseed, tea, and tobacco, fostering regional specialization and a national market. However, the penetration of the commodity economy also led to social stratification in rural villages. The Hon-byakushō (landholding, tax-paying peasants) system destabilized, giving rise to wealthy landowners (Jinushi/Gōnō) who accumulated land and engaged in commerce, while the number of tenant farmers (Kosakunin) and landless peasants (Mizunomi-byakushō) increased. This sometimes resulted in Murakata-sōdō (village disputes) and Hyakushō-ikki (peasant uprisings).

Rural life involved communal labor (yui, moyai) and a degree of self-governance. Literacy improved with the spread of Terakoya. The Shogunate and domains implemented policies to stabilize rural life, curb urban migration (e.g., Kyūri Kinōrei), and promote specific industries (e.g., domainal monopolies). While often perceived as a period of hardship for peasants, overall living standards and population likely improved compared to earlier eras, though with significant disparities.


江戸時代の農業の力強さと、それがもたらした農村社会の光と影が見えてきただろうか? 次は、この農業生産力を背景に、全国に広がり花開いた「商業・都市・交通網の発達」について見ていこう!

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