長江と共に生きた国「呉」の興亡

三国の中で、魏(ぎ)が華北(かほく)を、蜀(しょく)が西南部を拠点としたのに対し、「呉(ご)」は広大な長江(ちょうこう)流域、特にその下流にあたる江東(こうとう)地方を中心に栄えた国だ。 豊かな土地と、天然の要害である長江、そして強力な水軍を背景に、魏や蜀とはひと味違う、独自の発展を遂げたんだ。

呉の歴史は、孫堅(そんけん)・孫策(そんさく)・孫権(そんけん)という親子三代にわたる英雄たちの物語から始まる。 彼らがどのようにして江東の地をまとめ上げ、国を築き、そしてその国がどのようにして終わりを迎えたのか、詳しく見ていこう。

呉の礎を築いた孫家の英雄たち

孫堅(そんけん)~江東の虎~

黄巾(こうきん)の乱や反董卓(はんとうたく)連合で名を馳せた猛将。その勇ましさから「江東の虎」と恐れられた。皇帝の証である「玉璽(ぎょくじ)」を偶然手に入れた話も有名だね。しかし、若くして戦死してしまうんだ。

孫策(そんさく)~小覇王~

孫堅の長男。父の死後、その遺志を継ぎ、わずかな兵で江東地方をあっという間に平定。「小覇王(しょうはおう)」と呼ばれ、その勢いはとどまるところを知らなかった。周瑜(しゅうゆ)のような親友であり名参謀も得て、呉の国の基礎を固めた。でも、彼もまた若くして刺客に襲われ、その傷がもとで亡くなってしまうんだ。

孫権(そんけん)~碧眼紫髯の若き君主~

孫策の弟。兄の急死により、わずか10代で江東の主となる。兄からは「内政はお前に、外征は周瑜に任せろ」と言われたとか。冷静沈着で、粘り強く国を治め、呉の初代皇帝(大帝・たいてい)となる。赤壁の戦いで曹操を破り、呉の独立を決定づけた英雄だ。

呉の建国から滅亡までの道のり

  • 200年~229年(基盤確立期)

    孫権、江東を治める

    兄・孫策の死後、孫権が江東の支配者となる。張昭(ちょうしょう)、周瑜、魯粛(ろしゅく)といった有能な臣下に支えられ、国内の安定に努める。208年の「赤壁の戦い」では劉備と連合して曹操の大軍を破り、呉の独立を確固たるものにした。

  • 222年:夷陵の戦い

    対蜀戦での勝利

    蜀の劉備が関羽の弔い合戦として攻めてきた「夷陵(いりょう)の戦い」で、若き陸遜(りくそん)を大都督に抜擢。陸遜は見事な采配で蜀軍を大破し、呉は荊州南部の領有権を確実なものとした。

  • 229年:呉、建国

    初代 大帝(たいてい)・孫権

    魏・蜀に遅れること数年、孫権もついに皇帝に即位し、国号を「呉」と定めた。都は建業(けんぎょう、現在の南京)。ここから呉の本格的な国家運営が始まる。孫権の治世は長く、約50年に及んだ。

  • 孫権の治世(~252年)

    安定と発展、そして翳り

    孫権の統治下で、呉は国内の安定を保ち、農業や商業も発展した。特に「山越(さんえつ)」と呼ばれる異民族の平定を進め、支配領域を拡大。また、造船技術も発達し、夷州(いしゅう)や亶州(たんしゅう)といった海外(現在の台湾や日本という説もある)へ使者を送るなど、海洋への関心も高かった。しかし、晩年は後継者問題(二宮の変・にきゅうのへん)で国内が混乱し、国力に陰りが見え始めた。

  • 孫権死後の呉(252年~280年)

    権力闘争と衰退

    孫権の死後、呉では幼い皇帝が続いたり、権力を持った臣下が好き勝手をするなど、政治が不安定になった。会稽王(かいけいおう)・孫亮(そんりょう)、景帝(けいてい)・孫休(そんきゅう)といった皇帝が立ったが、諸葛恪(しょかつかく)や孫峻(そんしゅん)、孫綝(そんちん)といった権臣たちの専横が続いた。最後の皇帝となった末帝(まってい)・孫皓(そんこう)は、最初はまともな政治をしようとしたものの、次第に贅沢にふけり、残虐な刑罰を行うなど暴君と化し、民衆の心は離れていった。

  • 280年:呉の滅亡

    英雄たちの国、終焉

    その頃、魏を乗っ取った晋(しん)の司馬炎(しばえん)は、ついに呉への総攻撃を開始。晋の大軍は水陸両面から攻め寄せ、呉の軍隊は各地で敗北。もはや抵抗する力も気力も失った孫皓は降伏し、呉は建国から52年(孫権の皇帝即位から)で滅びてしまったんだ。これで三国時代は完全に終わりを告げ、中国は再び晋によって統一されることになった。

呉の支配領域 (三国鼎立期 イメージ)

魏・蜀の領域 (おおよそ) 呉の領域 (長江中下流域・江南) 長江 ※これは三国鼎立期の大まかな勢力範囲のイメージです。

呉ってどんな国だったの? ~水と共に生きる~

  • 長江流域の豊かな経済:呉の領土は、米作りが盛んで、魚介類も豊富な恵まれた土地だった。長江を使った水運も発達し、商業も活発だった。
  • 最強クラスの水軍:「呉の水軍」と言えば、三国時代最強とも言われるほど強力だった。赤壁の戦いで曹操の大軍を破ったのも、この水軍の力があったからこそ。
  • 江東の豪族たち:呉の政治では、昔からその土地に根を張ってきた有力な一族(顧氏、陸氏、朱氏、張氏など、まとめて「江東の豪族」と呼ばれる)の力が強かった。孫権は彼らと協力したり、時には対立したりしながら国を治めていった。
  • 海洋へのまなざし:呉は造船技術や航海術にも長けていて、南方の交州(こうしゅう、現在のベトナム北部など)を支配下に置き、さらに遠くの「夷州」や「亶州」へも探索隊を送っている。これは、他の国にはあまり見られない特徴だね。
  • 仏教の伝来:この頃、インドから仏教が伝わり始めていて、呉でもお寺が建てられたり、お坊さんが活動したりしていた記録がある。

【豆知識】「山越(さんえつ)」ってどんな人たち?

呉の歴史の中でよく出てくる「山越」というのは、主に呉の領内の山間部に住んでいた、漢民族とは異なる人々(異民族)のことだよ。彼らは独自の文化や習慣を持ち、時には呉の支配に抵抗して反乱を起こすこともあった。 孫権をはじめとする呉の支配者たちは、この山越を平定し、彼らを呉の兵士や農民として組み込むことで、国力を増強しようとしたんだ。山越との戦いは、呉にとって国内を安定させるための重要な課題の一つだったんだね。

The "Shanyue" frequently mentioned in Wu's history were non-Han ethnic groups primarily inhabiting the mountainous regions within Wu's territory. They had their own distinct cultures and customs and sometimes resisted Wu's rule by rebelling. Wu's rulers, including Sun Quan, sought to pacify the Shanyue and incorporate them as soldiers or farmers for Wu, thereby strengthening the state's power. The struggle with the Shanyue was one of the critical domestic challenges for Wu in maintaining stability.